深夜の訪問者2
レイモンの言葉通り、アリアンヌの部屋の周囲の警備はその夜から強化された。私室の入口だけでなく、寝室の扉の前にも護衛が立ち、アリアンヌの部屋の窓の下でも二人見張りをしている。
アリアンヌは寝台に入らず、机に向かってランタンの灯りで本を読んでいた。今日フェリシテが持ってきてくれた新刊だ。今回は貴族令嬢と他国の王子のラブストーリーだった。アリアンヌはこのまま最後まで読んでしまうつもりだった。きっと今夜もあの男はやってくるはずだ。そう思えば、眠れるはずもない。寝ている間に殺されるなど、笑えない。
「──お前、眠らないつもりか」
アリアンヌはふいに響いた低い声に本に向けていた顔を上げた。妖艶に見える笑みを作る。
「まぁ。こんばんは、死神さん」
読みかけの本を机に置いて、アリアンヌはくるりと振り返った。室内には、昨夜と同じ漆黒の髪の男がいる。
「いつでも殺せると言っただろう。警備を増やすなど……やはり俺が怖いか」
陰鬱な低音が月夜に響く。月明かりが雪に反射し、昨日が嘘のように室内を明るく照らしていた。男の姿がはっきりと見える。漆黒の髪と瞳は、昨日は闇に同化してしまいそうだったが、今日は明かりの中で強い存在感がある。細身の体躯にはしなやかな筋肉がついており、鍛えられた肉体を想像させた。握られているのがアリアンヌ自身の命でなければ良かったのだが。
「いえ、警備は家族が勝手に増やしたまで──私は貴方をお待ちしておりましたもの」
微笑んで言うアリアンヌに、男は怪訝そうだ。しかし今夜は男の手にナイフはなかった。
「俺を待ってた?……本当は殺されたいのか」
「──違いますわ。死にたくないと言いましたでしょう」
アリアンヌはゆっくりと立ち上がった。男の方がアリアンヌの一挙一動に過敏に反応している。アリアンヌは苦笑して、ティーテーブルを手で示した。
「どうぞ、おもてなししますわ」
「……状況を分かっているのか」
眉を顰めた男はアリアンヌの動きを目で追う。アリアンヌは近くに置いてあった果実水をグラスに入れ、二つ並べた。
「ええ、分かっておりますわ。どうぞ、毒など入っておりませんわ」
アリアンヌは先に椅子に座って、果実水を飲み、毒が入っていないことを示す。男は迷いながらも向かい側の椅子に座り、果実水をおずおずと手に取った。
「……俺がお前のグラスに毒を入れるかもしれないだろう」
男は果実水を一口飲むと、音を立ててグラスを置き、懐から指先で摘めるほど小さい薬包を取り出した。アリアンヌはそれを見て僅かに目を見張ったが、すぐに笑みを深める。
「まぁ、ですが……毒は嫌ですわ。苦しみながら死ぬのはごめんですもの」
アリアンヌはころころと笑い、立ち上がった。男は僅かに唇を引き上げる。アリアンヌは机の引き出しを開けると、一枚の手紙を取り出した。封蝋がしてあり、シャリエ伯爵家の印が押されている。薄桃色の可愛らしい封筒は、見た目にはただの若い娘が書いたラブレターだ。
「貴方にお願いがあってお待ちしておりましたの」
振り返ったアリアンヌは小首を傾げた。その仕草に、男が嘆息する。
「──何を言っている。それを俺が素直に聞くと思っているのか」
「ええ、きっと。……貴方、リヒャルト様にお会いしたことはあるかしら?」
アリアンヌの口から出たその名前に、男は僅かだが動揺を見せた。アリアンヌは男の様子を見て薄く笑う。
「──そう、分かりましたわ。……お願いというのは、これをリヒャルト様に届けて頂きたいの」
アリアンヌは椅子には座らず、男の横に立ち、ティーテーブルを滑らせるように封筒を男に差し出した。そして揶揄うような表情を作る。男は封筒を手に取り、口を開いた。
「あの家は俺でも入るのは無理だ」
「あら、そうなの。では王城では?貴方のご主人様の目があるかしら?」
その言葉に男は立ち上がり、アリアンヌから距離をとった。
「……お前──」
「別に私はどうこうするつもりはございません。ただ、リヒャルト様に父が貴方のことをお伝えすると仰っていて……きっと明日の昼にはもうリヒャルト様はご存知になりますわ。ですから、先に私からお伝えしたいのです。お手伝い頂けません?」
先程までの強気な態度から一変し、アリアンヌの瞳には誤魔化せないほどの寂しさが浮かんでいた。男はその目に浮かぶ感情に戸惑う。
「本当に渡すとは限らないからな」
男はそう言って、封筒を懐に入れた。そしてアリアンヌが椅子に座りなおそうと視線を外した瞬間のうちにそこから姿を消した。
アリアンヌは椅子に座ると嘆息し、背凭れに身体を預ける。ティーテーブルの上を一瞥すると、手元にある小さなベルを鳴らした。
「お嬢様、如何なさいました」
寝室の前で護衛をしていたはずの男が入室してくる。アリアンヌは二つのグラスを指し示した。
「──これ、すぐに片付けて。この水差しの中身もよ。毒が入っているかもしれないから、気を付けて扱って……必要ならそのまま証拠として王城へお持ちして鑑定して頂いて」
護衛の男は、二つのグラスと水差しの中の果実水と、テーブルの上に置かれた開封済みの薬包を見た。きっぱりと言い切るアリアンヌに顔を青くする
「今夜も来たのですか!?」
アリアンヌは疲れたように笑った。
「ええ。……警備に意味はなさそうね。いっそ明日は、お菓子でも用意しておこうかしら」
アリアンヌは天井を見上げ、手紙の行方を思った。






