トレスプーシュ侯爵家の夜会3
人混みの間を破るように、焦った様子でセザールが走り寄ってきた。
「ポレット!大丈夫か?!」
ポレットは父親であるセザールの声に、はっと顔を上げた。先程までいた場所の近くには、天井にあったはずのシャンデリアが粉々になって落ちている。状況を理解した瞬間、ポレットは顔を青くして切り裂くような悲鳴を上げた。
アリアンヌはその声に顔を顰め、我に帰ったリヒャルトと共にガラスに触れないよう気を付けて身体を起こす。リヒャルトが差し出した手に手を預け、支えられながら立ち上がった。アリアンヌは寄り掛かるように背中をリヒャルトに預ける。まだ震える足でいるアリアンヌは、リヒャルトの腕の中から人が避けている場所を見た。先程までまさにアリアンヌが立っていたその場所にシャンデリアが落ちて来たことが分かりぞっとする。リヒャルトは厳しい表情でアリアンヌの目をそっと手で覆い隠した。
「見なくていい。……気分が悪くなる」
アリアンヌはリヒャルトの腕にそっと手を掛け、引き下げた。アリアンヌは目の前に突き付けられた殺意を示す景色に、強い恐怖と怒りを感じていながらも、それをじっと見据えている。
「──いいえ、私に向けられたものですわ。……見ないわけには参りません」
現場から離れたところでポレットをセザールが抱き締めていた。人前であるにも関わらず、良かったと言い続けるセザールは、一人の親の顔をしている。その姿に、証拠はないが、アリアンヌにはセザールが故意にやったことではないと思われた。
「リヒャルト様」
アリアンヌは小さな声で呟くように言った。リヒャルトは現場から目を逸らさないまま、アリアンヌの声に耳を傾ける。
「どうした?」
アリアンヌの足はもう震えていなかった。寄り掛かっていた背をリヒャルトから離し、自らの力で真っ直ぐに立つ。
「私は──犯人から、逃げも隠れも致しませんわ」
派閥争いもラインハルトの思惑も、今のアリアンヌにはどうでも良かった。向けられた明確な殺意に対する怒りが身体を支配する。それはリヒャルトの大切なものへと向けられる排除しようとする意思だろうか。確信はなかったが、アリアンヌはリヒャルトからもう何も奪わせるつもりはない。
リヒャルトはアリアンヌの手を握る。その力強さに、アリアンヌはぎゅっと手を握り返した。
「──あら、残念だわ」
トレスプーシュ侯爵邸の一室で、よく梳られた白銀の髪をサラリと揺らした女は、喉の奥でくつくつと笑った。月明かりしかない部屋で、グラスに注がれた真紅の葡萄酒を優雅に傾ける。
「申し訳ございません」
黒髪の男は、背筋を真っ直ぐ伸ばし深く頭を下げた。
「ふふ、良いのよ。あの娘も、きっと怖がっていることでしょう。夜会はお開きね、私達も帰りましょうか」
満足げに微笑み、宝石のような瞳を細めた女は、唐突に黒髪の男にまだ葡萄酒の残るグラスを投げ付けた。
グラスが男の後ろの壁に当たって落ちる。割れる音が静かな室内にいやに大きく響いた。
「……そうやって避けるところ、本当に可愛げがないわ」
「恐れ入ります」
「──……次は上手くやりなさい」
男は一礼し、次の瞬間には室内からその姿を消した。
ティモテは会場から聞こえてくる騒ぎに何事かと様子を窺っていた。リヒャルトかアリアンヌの許しがなければ、ティモテは会場に入ることができない。何があったのかを探るべく、動ける範囲を必死に調べた。
──ガシャンッ
物音が聞こえたのは、そんな時だった。トレスプーシュ侯爵邸の一階、普段は空室になっているであろう客間の一室からのようだ。ティモテはその扉に近付くと、剣の柄に手を掛け、ノックをせずに扉を開けた。
中に明かりはなく、月明かりが大きな窓から差し込んでいる。素早く室内を目で探ると、壁側にガラスの破片と赤い液体が散らばっているのを見つけた。怪訝に思い一歩中へと踏み込んだティモテの背後で、扉が大きな音を立てて閉じる。はっと振り返ったティモテに、室内から声が掛かった。
「あら、無粋なお客様だと思えば、飼い犬くんじゃない?」
その声は、傲慢な色を含んでいた。やや高く纏わり付くようなその声を、ティモテは知っている。女は窓辺に腰掛けていた。カーテンが夜風に煽られ舞い上がる。長い白銀の髪が、風に煽られ女の表情を隠した。
「──お前……」
驚愕に目を見開き立ち竦むティモテに、女は楽しそうに笑い声を上げた。
「まあ、お前だなんて失礼だわ。……ちゃんと以前のように、ご主人様とお呼びなさいな」
ティモテは奥歯を噛み締め顔を歪ませる。剣の柄に掛けた手を強く握った。
「何を……何をしたんだ……!」
「ねえ。貴方、今幸せ?」
女はティモテの質問には答えず、一方的に質問をする。ティモテはその質問に答えることなく、じっと女を睨んでいた。
女は返事をしないティモテに呆れたような笑みを見せると、身体の重みに任せるように、窓の外へと倒れ込んだ。
ティモテが慌てて駆け寄り窓の下を見渡したが、そこには誰もいなかった。不意に足の力が抜けて、ティモテはその場に座り込む。今更になって足が震えていることに気付き、ティモテは自らの弱さに失望した。握り締めた手で足を何度も叩くその顔は、今にも泣き出しそうなほどに歪んでいた。