夜会の始まり
初めて訪れたトレスプーシュ侯爵邸は、アリアンヌがモーリスに渡された見取り図の通りの造りをしていた。ロージェル公爵家よりも土地は小さく建物も古いが、歴史を感じさせ、訪れる人に荘厳な印象を与えている。
アリアンヌはリヒャルトのエスコートで馬車を降りた。ティモテとニナはここから別行動で、使用人用の入口からそれぞれの控室へと行くことになる。
周囲の人達の視線を感じながら、アリアンヌはリヒャルトの左手に右手を預けた。掌から緊張を感じ取ったのか、リヒャルトはアリアンヌに微笑みかける。
「大丈夫だ、任せて」
一瞬きゅっと握られた手に、アリアンヌは安心する。
「──ええ、もちろんです」
不敵な笑みを浮かべたアリアンヌにリヒャルトはくつくつと笑い、二人はトレスプーシュ侯爵邸へと足を踏み入れた。
「こんばんは、ロージェル公爵殿」
アリアンヌがリヒャルトと本邸へと入った途端、中央にある螺旋階段から降りてきた男性が声を掛けてきた。
「今日はお招きありがとうございます、トレスプーシュ侯爵」
リヒャルトの挨拶に続いて、アリアンヌもカーテシーをする。リヒャルトの言葉で、アリアンヌは階段の途中から挨拶をしてきた中年の男性がトレスプーシュ侯爵──セザール・トレスプーシュだと分かった。資料によると、貴族議会派の有力者だ。トレスプーシュ侯爵家は、建国以来続く由緒ある家系でもある。
「いやいや──我が家の夜会にご参列頂きましたこと、感謝しておりますよ。……ほう、そちらが婚約者のシャリエ伯爵令嬢でいらっしゃいますか。なかなか可愛らしい方だ」
セザールはアリアンヌを一瞥すると、頭の先から足元まで品定めするような目で見る。ドレスと宝飾品にあしらったサファイアとエメラルドに目を留め、僅かに顔を顰めた。アリアンヌは意識して背筋を伸ばし、優雅に見えるよう笑みを貼り付ける。セザールはその笑みに面食らったように瞬きをし、表情を消した。リヒャルトはちらりとアリアンヌを横目で窺うと、セザールに笑顔を向けた。
「お褒め頂き光栄です」
セザールは気を取り直すと、リヒャルトに向かって含みのある笑みを浮かべ、夜会会場の方向を示した。
「……どうぞ、ご婚約者様と、今宵の宴をごゆっくりお楽しみになってください」
「ええ、楽しませて頂きますよ。……愛しの彼女とね」
リヒャルトはふいとセザールから視線を逸らした。アリアンヌの手を引き、夜会会場へと足を向ける。カツカツと鳴る足音が、エントランスに響いた。
コールマンに名を呼ばれ会場に入った時、ここまであからさまに視線を向けられたのは初めてだった。その視線はリヒャルトと婚約して最初の王城の夜会よりも直接的なものだった。アリアンヌは足を止めそうになる自身を心の中で叱咤し、リヒャルトのエスコートで一歩ずつ歩みを進める。
「──アリアンヌ、大丈夫だ。貴女はここにいる誰より美しい。……笑って」
歩きながら耳元で囁くリヒャルトの声に、アリアンヌは調子を取り戻す。リヒャルトの表情を窺い、エメラルドグリーンの瞳と目を合わせた時、アリアンヌは全ての男性を虜にするような、年齢に似つかわしくないほどの蠱惑的な笑みを浮かべていた。いくつものシャンデリアで照らされた夜会会場の光がドレスに反射し、華やかなその姿は、まさに人々を惑わす幻の蝶のようだ。リヒャルトは苦笑した。
「おやおや、ロージェル公爵殿。このような場へいらっしゃるとは、大変珍しいことで」
会場の中ほどまで進んだところで、高齢の男性に呼び止められ、リヒャルトは足を止める。アリアンヌも従って少し後ろに控えた。
「こんばんは、フーリエ伯爵。貴殿にお会いするとは思いませんでした」
リヒャルトは余裕のある表情で返す。
「おやおや、かつての王子様は手厳しい……貴殿には今後も期待してますよ」
「恐れ入ります」
フーリエ伯爵はアリアンヌに目を向け、全身を舐めるように見る。アリアンヌはその視線を不快に感じながらも、表情には一切出さずに扇でそっと口元を覆った。
「噂の婚約者殿をこうも間近で見れるとは……いやいや、お美しいですな」
リヒャルトは自然に見える動きで、そっとアリアンヌをフーリエ伯爵から隠すように前に出る。
「それはどうも。では私達はまだ挨拶がありますので、これにて失礼します」
リヒャルトはその言葉を最後にフーリエ伯爵の横を通り過ぎた。
「──王弟殿下は人形に惚れたか」
フーリエ伯爵の横を通るとき、アリアンヌは確かに罵倒の言葉を聞いた。リヒャルトには届かないほどの小さな声には悪意が滲んでいる。アリアンヌは笑みを貼り付け、リヒャルトに手を引かれるままに会場の奥へと進んだ。
しばらくすると、給仕の使用人が何人か配膳室から出てくる。会場内の貴族達へと、乾杯用のシャンパンを配っているようだ。リヒャルトは一人の給仕係と目を合わせ、シャンパンを二つ受け取った。アリアンヌに笑みを崩さずグラスを渡す。
「今日は私の渡すもの以外は口にしないようにしてくれ」
声を落としたリヒャルトに、アリアンヌは頷いた。
給仕がグラスを配り終えると、セザールが前に出て夜会の開始を告げる。皆がその声に合わせてグラスを掲げた。