秘密の時間1
「リヒャルト様、淑女の部屋に夜お一人でいらっしゃるなど……」
照れ隠しのアリアンヌの苦言にリヒャルトは笑う。
「咎められるだろうから、モーリスにも内緒だ。招き入れたアリアンヌも共犯かな?」
「まぁ、リヒャルト様は悪い方ですわ」
アリアンヌはリヒャルトと話している間に少しずつ冷えた身体が温度を取り戻していくのを感じていた。赤くなった頬で、悪戯な笑みを返す。
「それで私のお姫様は、共犯者になってくれるのかな?」
「──ええ、お付き合いしますわ」
アリアンヌはインクさえ付けていなかったガラスペンを置き、ストールの胸元を押さえて立ち上がった。
リヒャルトはグラスと果実酒を持ってきてくれていた。アリアンヌはリヒャルトとテーブルで向かい合わせに座る。薄く色の付いた液体をそれぞれのグラスに注ぐと、リヒャルトの悪戯な瞳に誘われるように、グラスを小さく合わせた。一口飲むと、甘さのある液体が喉を通り抜ける。通った先から熱が戻ってくるかのようだ。リヒャルトが持ってきたのは強くない果実酒だったので、あまり酒が飲めないアリアンヌでも美味しく飲むことができた。
「──これ、美味しいわ」
「実は、我が家の料理人の謹製だ。今日は薔薇水で薄めているから、より飲みやすいと思うよ」
リヒャルトは慈しむような表情でアリアンヌを見ている。
「……華やかな香りがします。お気遣いありがとうございます」
しばらくアリアンヌもリヒャルトも無言になった。薄暗い部屋で音もないのに、不思議とアリアンヌは窮屈さを感じなかった。その穏やかな静寂に相応しい落ち着いた声でリヒャルトは口を開いた。
「モーリスから聞いた。ティモテが依頼人にアリアンヌの正体を言ってしまったと──」
アリアンヌは苦笑し、それでいて少しの焦りを含んだ声音でリヒャルトに聞いた。
「……モーリスさんからはそのことしか聞いておりませんか?」
「あぁ。詳しくは直接アリアンヌから聞くようにと」
アリアンヌはリヒャルトの返事に安堵した。エリスの初恋を、本人の覚悟もなしにリヒャルトに知られる訳にはいかない。そう思ったとき、アリアンヌの胸に棘が刺さったような小さな痛みが走った。アリアンヌはその痛みを表情に出さないように、慎重に言葉を発した。
「そうでしたか」
「依頼の方は……なかなか上手くいっていないのか?」
アリアンヌは頼りなげな笑みを浮かべた。それはリヒャルトの初めて見る表情だった。
「ええ。……エリスの為に何をしてあげたら良いのか、分からなくなってしまって」
アリアンヌはエリスの初恋を叶えてあげたかった。しかし相手がリヒャルトでは、エリスとは身分が違い過ぎる。エリスも望んではいないと言った。せめて自信を付けさせて良い思い出にできればと思ったが、アリアンヌの意に反し、ティモテが力技でエリスに決断を迫ってしまったのだ。 当初の計画は何度もの方針転換の結果、全く意味のないものになってしまった。
そしてアリアンヌは、この気持ちが純粋にエリスの為を思ってのものなのかも分からなくなってしまった。ティモテの言葉が今もまだ耳の奥で聞こえているようだ。
アリアンヌは迷いを含んだ瞳で、リヒャルトのエメラルドグリーンの瞳を答えを探るようにじっと見つめた。
「──リヒャルト様。私の優しさは、残酷なものでしょうか」
リヒャルトはアリアンヌの問いに息を飲んだ。真っ直ぐに向けられた言葉は、リヒャルトに誤魔化すことを許してくれない。リヒャルトはそのアリアンヌの純粋さを、眩しく、少しだけ恐ろしく思った。リヒャルトがその迷いを切り捨てたのは、いつのことだっただろうか。もう覚えていない。リヒャルトはグラスの果実酒を一度に煽った。
「……そうだね。残酷というのなら、貴女の優しさも、私の優しさも──我々の優しさなど、全て残酷なものだろう」
リヒャルトがグラスを置く音が室内に響いた。アリアンヌはリヒャルトの答えに何も言うことができずにいる。リヒャルトは余計にアリアンヌを悩ませてしまうかもしれないと思いつつも、言葉を続けた。
「持つ者の優しさは、持たざる者にとっては全てが残酷だ。優しさによって、現実を突きつけることになるからね」
「現実を……」
「そう。それでも喜ぶのは、気付いていなかったり、それで利益があったり……人それぞれだ。もちろん不快に思う人もいる」
アリアンヌは目を伏せた。それが、ティモテの言う残酷さなのだろうか。今のアリアンヌには分からない。リヒャルトは考え込んでしまった様子のアリアンヌに、僅かに眉間に皺を寄せた。自分の言葉がアリアンヌの心に傷を付けてしまったかと不安になる。
「それでも優しさを振り撒き、他者に何かを与えることは、ノブレス・オブリージュ……貴族としての責務だ。その矛盾は、きっとラインハルトにも説明はできないよ」
リヒャルトは苦笑し、果実酒をグラスに注いだ。アリアンヌのグラスにも減っていた分を注ぎ足す。アリアンヌはラインハルトの名前に驚いた。
「──陛下にも?」
アリアンヌの問いに、リヒャルトは優しい笑みを浮かべた。