不思議な来客
アリアンヌはナタリーに目で合図を送ると、作業に使っていた地図を片付けさせた。慎重に扉の前に立ち、声を掛ける。
「どなたでしょうか?」
「相談があるんだ。入れてくれないか?」
若い男の声だ。
「誰からここの話を?」
アリアンヌは、自分とナタリーかニナしかいないこの事務所に直接訪ねてくる人間を警戒するようにしていた。ナタリーとニナは普通の男性にも負けない程度には鍛えているそうだが、アリアンヌ自身に戦う能力はないし、危険には近寄らないように、ナタリーとニナにもきつく注意されていた。
「探偵のコームさんから聞いたんだ。先にそっちに行ったら、アンナさんの方が良いと紹介されてね」
探偵のコームは、アリアンヌがよく仕事を流す先でもある。勿論、今回のように相談を回してくれることも何度もあった。
「今開けるわ」
アリアンヌは上部の鍵とノブの横の鍵を外し、扉を押し開けると、外に立っていた男に入るよう促した。入室してすぐにノブの横の鍵だけをかけ直す。
男は生成りのシャツにグレーのセーターを重ね、茶色のズボンを合わせている。二十歳前後だろうか。服装はやや裕福な商人らしい。そして最も目を惹くのは、毛先を遊ばせた緩いウェーブの赤銅色の髪と、細いフレームの眼鏡の奥でエメラルドの緑を湛える瞳、そして、芸術のように精緻な美貌であった。
「はじめまして、貴女がアンナさんですか?私はアルトと言います。今回はご相談したい事があり伺いました」
若さの割にやや低く艶のある声で流れるように名乗った男ーーアルトは、これまで多くの女性を魅了してきたであろう美貌に人好きのする爽やかな笑みを浮かべて、瀟洒な眼鏡のレンズ越しにアリアンヌを見つめた。
「いらっしゃいませ、アルト様。コーム様からのご紹介とのことで、私でよろしければ、お話をお聞かせくださいませ」
右手で応接セットのソファを勧め、アリアンヌも反対側のソファへ座る。それを確認したナタリーは、隣室へ紅茶を淹れに行った。アルトはソファに座り、余裕そうに事務所を見渡していた。本棚や地図を見渡し、小花柄のカーテンに目を止めると、柔らかく微笑んだ。様子を伺っていたアリアンヌもその笑みを直視できず僅かに顔を逸らした。
「可愛らしいですね」
アルトはアリアンヌに視線を戻すと、軽薄さすら感じられる笑みを浮かべた。
「ありがとうございます。お客様もリラックスできる事務所を目指しておりますので」
「いえ。事務所でなく、貴女のことです」
紅茶を持って戻ってきたナタリーは、その軽薄さに牽制の意味を込めて、ガチャンと音を立てて紅茶をアルトの前に置いた。少し溢れたようだ。少し身を乗り出していたアルトは、慌てて背中をソファへと戻す。アリアンヌの分の紅茶を置くと、一礼して離れ、ナタリー自身の分を執務机へ置く。以前よりアリアンヌとナタリーが決めている、邪魔をせずに話を聞くための距離感だ。
「どうぞ、まずはお飲みください」
アリアンヌはアルトに紅茶を勧めた。アルトが右手をカップに掛け、傾けたのを確認して、アリアンヌも紅茶のカップを口に運ぶ。やっぱりナタリーの淹れる紅茶は美味しい。思わず綻んだ口元をカップで隠し、右手でそっとカップをソーサーへと戻す。
アリアンヌが伏せた目を上げると、アルトがエメラルドの瞳を丸くし、驚いたように見つめていた。
「貴女は……」
アリアンヌは不思議に思う。先程までは軽薄な態度で接してきた男が、何に驚いているのか。何かおかしなところがあっただろうか。今日のアリアンヌは、ブラウスに重ねてチェックのワンピースというアンナ仕様の服で、下ろしていれば緩やかに波打つ髪も、左右で三つ編みにしていた。貴族の令嬢には見えないだろう。もしアリアンヌを知っている人であっても、他人の空似であると片付ける程だ。それとも、若すぎるからと倦厭されたのだろうか。
怪訝に目をやるアリアンヌの前で、それまで固まっていたアルトが、いきなり何かに急き立てられるかのように立ち上がった。突然変化した様子にアリアンヌはどうしたら良いのかわからず、おずおずと声を掛けた。
「アルト様、どうなさったのですか?」
アルトは肩を揺らし、眼鏡の奥で瞳を揺らす。本当に、一体何だと言うのか。初対面で急にこの態度。依頼人であれ、随分なものだ。アリアンヌの内心を感じ取ったのか、アルトは慌てた。
「申し訳ない。今日は失礼させてもらいます。……また改めます」
じりじりと足を引きながら、アルトはアリアンヌへと挨拶をする。軽薄かつ変な人だが、丁寧に挨拶をするあたり、悪い人ではないのだろうか。アリアンヌは訳も分からず、アルトを見送った。
「体調がお悪いようでしたら、どうかお大事にして下さい。またお元気になりましたら、どうぞ、アンナの相談屋へお越しくださいませ」
アリアンヌは気持ちを切り替え、平素の通りにアルトへと挨拶をした。町娘風のワンピースを摘み、小さくカーテシーをアルトへと行う。それを見て余計に動揺したアルトは、自ら事務所の鍵を開けて慌ただしく帰って行った。それを見ていたナタリーは、アリアンヌに胡乱な目を向ける。
「お知り合いでしたか?」
何の心当たりもないアリアンヌは、怪訝そうに答えた。
「知らない人よ。不躾だけど、お兄様方と遜色ない程に美しい殿方でらしたわね。……それにしても、あの方、平民かしら?」
アリアンヌが思い出しているのは、アルトの隠しきれない上品な佇まいと、取り繕ったような笑顔。それは、彼女が以前より、そしてここ一年でより多く触れていたものだ。
「……アリアンヌ様?」
「いえ何でもないわ。何でもないのだけど……彼のあの所作は、社交界で得る物よ」
アリアンヌは寂しげに目線を落とすと、ナタリーの返事を待たずに執務机へと戻る。テーブルの上の紅茶は、殆ど飲まれないまま放置されていた。ナタリーはそっとアリアンヌの側から離れ、紅茶を注ぎ直しに別室へと向かう。
ナタリーは、アルトを貴族の子息か裕福な商人辺りであろうと予想した。初対面の態度から、アリアンヌと知り合いではないことは分かった。とすれば、言い広められることもないだろうか。そもそも相談屋や探偵に頼もうとする時点で、何らかの問題がある状況である可能性は高いのだ。自ら問題を抱えていることを吹聴する者もいない。ナタリーは気を取り直し、淹れた紅茶を執務机のアリアンヌへ差し出した。
「……変わった方でしたが、また来ると仰ってましたし、お知り合いでもないでしょう。あまり気落ちなさらなくてよろしいかと思いますよ」
アリアンヌはカップを受け取り、口元を緩めた。
「ありがとう、ナタリー。……そうよね。私が顔を見たことがない時点で、知り合いではないわ。……あんな人、一度会ったら忘れる筈がないもの」
アリアンヌの兄達にも劣らない、むしろより印象に残る美形だった。社交性もありそうなのだから、もし貴族として夜会で出会っていたら、気付かない訳がない。
「そうですよ!」
ナタリーはらしくもなく全力で頷いた。アリアンヌはその仕草が可笑しくて笑い声をあげる。
「では、続きに戻りましょう。ナタリー、地図を」
「かしこまりました、すぐにご用意致します」
二人はそれから地図に点を増やし、線で繋ぐ等してみたが、飼い主に繋がるヒントは見つからなかった。