蔓薔薇のティーセット
翌日、アリアンヌはまた厨房の隣室からエリスを呼んだ。今日こそはモーリスとリヒャルトのカップがどれだか聞かなければならない。
「エリスー、お疲れさまー」
今日のエリスはアリアンヌが声を掛けても手を滑らせることはなかった。顔を上げ、カウンターへとやってくる。
「アンナ、お疲れさまです。昨日はごめんなさい」
「良いのよ、気にしないで。それより、今日こそは紅茶を淹れたいから、教えてもらいたいのだけれど……」
眉尻を下げたアリアンヌに、エリスは小さく笑って、少し待つようにアリアンヌに告げた。エリスは厨房から一度出ると、こちら側の部屋へと入ってきた。使用人が紅茶やお菓子を用意する部屋だ。
「……私、他人に教えるなんて初めてですけど」
自信のないエリスに、アリアンヌは笑った。
「大丈夫よ、教える相手は私だもの」
「それでも緊張します。──ええと、使用人用の食器は、ここの棚に入っています。モーリスさんのは、このカップ」
アリアンヌはポケットからメモを取り出し、書き付ける。
「オリーヴさんのカップはこれです。他の人に淹れることはアンナはないと思うから……ええと、使用人が自由に使って良い食器類はここです。えっと……指定のないときは、ここにあるティーポットを使ってください」
「エリスは、皆のカップを覚えているの?」
「あ……はい。大体は。特にモーリスさんのカップは、三回くらい割ってしまったし……」
俯いてしまったエリスに、アリアンヌは笑って肩を叩いた。
「そう。──それで、後はリヒャルト様のカップなのだけれど」
アリアンヌの言葉に頷き、エリスは別の棚の前に移動した。アリアンヌが並んで棚を見ると、エリスは棚にも触れないように、指をさして説明する。
「……これがリヒャルト様のティーセットです。この下にある四種類のティーセットは、お客様が来たとき用で……相手によって使い分けるそうです」
リヒャルトのティーセットは、白磁に青で蔓薔薇が描かれている上品なものだ。来客用だと言うティーセットは、縁が金色になっていたり、純度の高い青磁のものもある。エリスは触れるのも怖いという表情だ。
「……そんなに高価な物なのね?」
アリアンヌの問いに、エリスはぶんぶんと首を上下に振り、青い顔で答えた。
「そ……そうなんです!このカップなんて、うっかり割ったら弁償なんて絶対にできません!触るのも怖いですし、本当は洗いたくだってないです……」
エリスは青い顔だ。アリアンヌは頷き、理解したと伝える。その棚の中で、アリアンヌはリヒャルト用のティーセットの隣にある、揃いの形のティーセットに目を留めた。デザインは同じ蔓薔薇だが、こちらの方が細い線で描かれている。着色も本物の蔓薔薇に似せており、花は黄色と桃色だ。一見して女性が使うのだろうと分かる。
「──あのティーセットは誰の物なの?」
アリアンヌの質問に、エリスは頬を染めた。アリアンヌは何故エリスがそんな顔をするのか分からず怪訝な顔をする。エリスは嬉しそうに話し始めた。
「……あれは、未来の奥様の物です。ご婚約なされた後、こちらの邸にいらっしゃることもあるからと、リヒャルト様自らお選びになって発注されたと聞いています。そんなの、憧れますよね……!」
アリアンヌはエリスの話に驚き、改めてそのティーセットを見た。華奢で繊細な模様のそれを、リヒャルトが選んだと言うのか。それ以上見ていたらアリアンヌの頬も赤くなってしまいそうで、すっと目線を逸らした。
厨房とはカウンターで繋がっており、お湯や温めたものを厨房から貰うことができる。厨房に戻ったエリスは、カウンター越しに湯をポットに入れてくれた。アリアンヌは小さな砂時計をひっくり返し、礼を言う。
「エリス、ありがとう」
「いえ。……アンナもお仕事、頑張ってください」
微笑むエリスは可愛らしい。アリアンヌは覚悟を決めて、口を開いた。
「それで、依頼のことなのだけれど──明後日、エリスはお休みよね?私と一緒に、町に出掛けましょう」
アリアンヌの誘いに、エリスは怪訝そうだ。
「お出掛け、ですか?」
アリアンヌは笑顔で頷いた。
「それについても外の方が都合が良いし、良ければ……一緒に出掛けたいなと思って。私の友人も一緒なのだけど、エリスに用事がなければ、是非」
「お友達と、お出掛け……ですか。はい、予定はないです。大丈夫です!お誘い……ありがとうございます」
エリスはアリアンヌの誘いに、嬉しそうな表情だ。頷くと、にこにこと笑って一緒に出掛けることを了承する。
「じゃあ、明後日。楽しみにしてるわ!」
アリアンヌはエリスに手を振り、モーリスのカップと、自分用に自由に使って良いというカップを集めた。ポット等の道具と一緒にそれらを乗せたトレーをティーワゴンに起き、階段下まで運ぶ。階段だけトレーを持って上がり、二階で部屋から持ってきていたワゴンに乗せかえるのだ。
からからとワゴンを転がし、執務室の扉をノックする。モーリスの返事を待ち、紅茶を運んだ。
「アンナ様、ありがとうございます。……今はメイドとはいえ、未来の奥様に紅茶を淹れて頂くとは……やはり複雑な気分です」
そう言ってモーリスは立ち上がり、休憩用のソファへと移動した。紅茶を淹れ、アリアンヌも向かい側に座る。
「そうですか?今しかできませんから、新鮮な気分を楽しんで頂ければと……ふふ、冗談ですわ。お付き合いありがとうございます」
アリアンヌの言葉に額に手を当てたモーリスは、しかし紅茶を飲んで表情を緩めた。
「……ほぅ。お上手なのですね」
「ええ、紅茶は色々な茶葉があって興味深くて……子供の頃に、良く乳母にねだって淹れ方を教わっていましたの」
アリアンヌは少し恥ずかしそうに笑っている。モーリスはもう一口紅茶を飲んだ。
「そのご様子では、エリスをお誘いできたのですね?」
「ええ。協力してくれて本当にありがとうございます」
アリアンヌのお礼に、モーリスは首を振った。
「当然のことですので。アンナ様とニナは休みにしましたが、ティモテは勤務扱いです。……護衛としてお連れください」
アリアンヌはモーリスの決定に頷いた。確かに外出する時は必ずティモテを同行させるようリヒャルトから言われていたのだ。
「分かりましたわ。……紅茶を飲んだら、またお手伝いさせて頂きますので、一緒に頑張りましょう」
笑顔で言ったアリアンヌにモーリスは頷く。それからアリアンヌとモーリスは、リヒャルトが七時頃に帰宅するまで、ずっと執務室で仕事をしていた。