エリスとの接触1
リヒャルトが王城へと出かけた後、アリアンヌはモーリスと共に執務室にいた。主に書類の整理と資料集めが仕事だ。自分の執務机のないアリアンヌは、休憩用のソファに座り、テーブルで作業をしている。
「アンナさんが来てくれて助かります」
モーリスが書き物の手を止めずに話しかけてくる。アリアンヌは資料に目印の栞をいくつも挟みながら、それに答えた。
「ありがとうございます、モーリス様。大したことはできませんが」
苦笑したアリアンヌに、モーリスは手を止め、嘆息した。ゆっくりと首を左右に振る。
「いえ、本当に助かっています。……リヒャルト様の仕事は一応陛下の相談役なのですが、実際のところ、実務も多くて。しかも領地は港のある東部地方で、そっちの仕事も山のようにあって……」
「まぁ、そうなんですの?でも、それを支えていらっしゃるモーリス様も素晴らしいですわ」
「そんな、私などまだまだでございます。リヒャルト様には私だけでなく、妻と子まで助けてくださった恩があります。もっとお支えできればと思っておりますのに……それを、あの狸貴族どもはいつもいつもリヒャルト様の邪魔ばかり……」
「狸貴族?」
アリアンヌの聞き返す言葉に失言に気付いたとばかりに焦りだしたモーリスは、慌てて自らの発言を誤魔化すためか、リヒャルトの話を始めた。
「いえ!リヒャルト様はとても頑張っていらっしゃるということです。少し……いえ、大分……いや、本当に不器用ですが、それでも素直でお優しい方なのです。少し前まではこのままではリヒャルト様は御結婚もできないのではないかと妻共々心配しておりましたのに、こんなに素敵な婚約者様を見つけて来られて……」
モーリスは最初の理由を忘れたように、目を輝かせてリヒャルトの話をしている。語らせていたらいくらでも出てきそうだ。アリアンヌは自分の話になりそうなことに気付き、手を止めてモーリスに笑顔を向けた。
「──あの、よろしければお茶にしませんか?」
「……すみません、ありがとうございます。そうしましょう」
アリアンヌの申し出に、感極まりかけていたモーリスは、それを恥じるように言った。アリアンヌは微笑み、立ち上がる。
「厨房に行ってきますので、しばらくお時間頂きます。モーリス様も少し休憩なさっててください」
「そうします。……エリスのところへ行くのですか?」
「はい。なので、少しお待たせすると思いますわ」
アリアンヌはモーリスの見送りで執務室から出た。一階の厨房に向かうため、端にある使用人用の階段を降りる。今は昼を少し過ぎた頃だ。廊下の窓からは、屋敷の裏側が見える。綺麗に整えられている庭では、庭師達が植物の手入れをしている。リヒャルトがいないこの時間、ロージェル公爵邸は使用人が掃除をしたり、出入りの業者がやって来たりと、なかなかに賑やかだった。
厨房は使用人用の裏口にもっとも近いところにあった。今は使用人達の分の昼食の片付けの時間だろうか。小さく水音が聞こえてくる。厨房は中で働く料理人やカトラリーメイドのみが入室を許されている。その隣室にある使用人が紅茶やお菓子を用意する部屋が、アリアンヌの目的地だ。厨房とはカウンターで繋がっており、お湯や温めたものを厨房から貰うことができるようになっている。
アリアンヌは中に入り、カウンター越しに厨房を見た。中には使用人が三人いた。少し奥の方で食器を洗っている赤茶色の髪の女性がエリスだ。
「エリスさーん、お疲れ様です!」
アリアンヌは聞こえるように少し大きな声を出した。エリスは手を止め、肩を震わせ驚いたように勢いよく振り返る。アリアンヌを視界に入れると、目を見開く。
「アンナさん?!」
その瞬間、エリスが手にしていた食器が滑って水を溜めている洗い桶の中に落ちた。派手な音を立て、水飛沫がエリスの制服に掛かる。
「ちょ、エリス。お前大丈夫か?!」
「やだ、びしょ濡れじゃない!」
厨房の中にいた二人はそれぞれ自分達の作業を止め、エリスを見る。エリスは制服を濡らしたまま、集まる視線に怯え俯いてしまった。
「あ、わ、あの……ごめんなさい……」
落ち込んでいるようなエリスに、料理人らしき男性が声を掛けた。
「良いから良いから、皿も割れてないみたいだし!とりあえずエリスは先休憩入って着替えてきな、風邪引いたら俺達は仕事にならないぞ!」
「はい、ありがとうございます……」
エリスはアリアンヌの存在を忘れたように、一人でとぼとぼと厨房から出て行った。アリアンヌが失敗させてしまったようで居た堪れない。アリアンヌは料理人の男性に声を掛け頭を下げた。
「あの!私のせいで……ごめんなさい」
料理人の男性は、からりと笑って手を振る。
「良いの良いの!エリスはねー、真面目な子なんだけど、どうしてもまだ緊張が抜けてないみたいで。君、友達なの?良ければ追いかけてやってくれよ」
アリアンヌは、エリスは落ち込むと庭の花壇の裏側に隠れていることが多いと教えてもらった。そして、もう一人の年配の女性に軽食が入った籠を渡される。
「これ、エリスの昼食だよ。貴女の分にビスケット入れておいたから、一緒に食べて少し話聞いてやってよ」
「ありがとうございます!」
厨房の二人のエリスへの気遣いが温かい。アリアンヌは二人に礼を言って、エリスがいるという庭へと向かった。