お仕事開始
リヒャルトがアリアンヌを解放したのは、それからしばらくが経ってからだった。アリアンヌは真っ赤になっている顔を隠すように俯き、リヒャルトの隣に座っている。
「──あの、すまなかった。最近忙しくしていて、目の前にアリアンヌ嬢がいたものだから……」
アリアンヌの表情が見えないため、リヒャルトは探り探りで言葉を紡ぐ。アリアンヌは染まった頬と潤んだ瞳のまま、キッとリヒャルトを睨んだ。
「リヒャルト様は意地悪です!私、恥ずかしくてどうにかなってしまうかと思いましたわ!」
「でも元気を貰ったよ。ありがとう、アリアンヌ嬢」
微笑んだリヒャルトは、手を伸ばしてアリアンヌの頭をぽんぽんと優しく撫でた。アリアンヌはまた顔を俯かせてしまう。
「──アリアンヌ、で結構ですわ。先程はそう呼んでくださいました。私、貴方と結婚するのですから……」
アリアンヌは少しいじけたような気持ちで言った。頭を撫でるリヒャルトの手が、優しくアリアンヌの頬に滑ってくる。俯いていた顔をそっと上げられ、視界が動く。アリアンヌはリヒャルトに瞳を覗き込まれ、時間が止まったかのように感じた。
「アリアンヌ」
形のいい唇が、アリアンヌの名前の形に動く。それを視線で追いかける。リヒャルトはふわりと笑った。
「柔らかく美しい音だ。好きだよ、アリアンヌ」
アリアンヌは視線を剥がせないでいた。リヒャルトの瞳が近付いてくる。思わず目を閉じると、額に柔らかな感触と確かな熱が伝わった。額に口付けされたのだ。アリアンヌは左手をそっとそこに当てた。額には何も無いが、何故だかそこだけがくすぐったかった。
更に時間をかけ、漸く依頼についての話になった。依頼人がエリスであること、レイモンには花嫁修行の一環ということになっていること、モーリスに協力してもらったこと、ここで働きながらエリスとの距離を縮めていくつもりだということ──
アリアンヌの話を聞き、リヒャルトは頷いた。
「話は分かった。それで執務室が主な仕事場になるのか。日中はモーリスと二人になるが……」
「ええ、問題ございませんわ。モーリス様には素敵な奥様がいらっしゃいますもの」
にっこりと笑ったアリアンヌに、リヒャルトは複雑そうな顔だ。
「……なるべく早く帰るようにする」
「私は嬉しいですが、よろしいのですか?……リヒャルト様もお忙しいでしょう」
「今日ほど遅くなるのはそう多くない。ちょうど議会が始まってすぐだから、雑務が多かっただけだよ」
リヒャルトはアリアンヌの言葉に微笑み頷く。アリアンヌはリヒャルトと過ごす時間をとれることが嬉しかった。無邪気な笑顔のアリアンヌを見て、リヒャルトは続ける。
「この家の敷地内は安全だが、外へ出るときは必ずティモテを連れて行くように。あと、手伝いは嬉しいが、今回は『アンナ』の方がメインだ。あまり無理をしなくて良い」
「ありがとうございます。ですが、モーリスさんはお優しいですもの。きっと大丈夫ですわ」
「……そうだな」
含みがある言い方だ。男性同士だとまた違うのだろうか。アリアンヌは首を傾げたが、リヒャルトと大分長く話し込んでしまったことに気付き、ソファから立ち上がった。
「遅くまでありがとうございます。私はそろそろお部屋に戻りますわ」
「いや、私が寝ていたのが悪かったんだ。……だが、何故アリアンヌがあそこで寝ていたんだ?」
扉まで送ろうと立ち上がったリヒャルトは、思い出したかのようにそう言った。アリアンヌはリヒャルトのその問いに、先程までの仕返しに悪戯に笑った。
「まぁ。リヒャルト様が、眠っていたのに私の手を掴んで離してくださらなかったのですわ。……リヒャルト様は、いつもあんな風になさるのですか?誤解を与えますわ」
リヒャルトはアリアンヌの責める口調に慌てた。
「いや、いつもではないよ。今日はちょっと……夢を見ていたから。それに私を朝起こしに来るのはモーリスだから、何も心配はいらない」
アリアンヌはリヒャルトの腕にそっと触れ、妖精のように可愛らしく笑った。
「焦ってくださってありがとうございます。おやすみなさい、リヒャルト様」
リヒャルトは狐につままれたような顔だ。しばらくしてからかわれたことに気付き、喉の奥を鳴らして笑った。
「あぁ。おやすみ、アンナ」
アリアンヌは、リヒャルトが開けた扉を抜けて執務室から出た。手を振るリヒャルトに、アリアンヌも手を振り返した。リヒャルトの夢は、ラインハルトに甘えていた幼い頃のものだった。懐かしい夢に絆され、目覚めてメイドの腕に縋っていたことに気付いたリヒャルトの驚きをアリアンヌは知らない。そして、アリアンヌに無意識に甘えていたことを、リヒャルトもまた気付いてはいなかった。アリアンヌが見えなくなるまで、リヒャルトは扉の前に立ったままだった。
翌朝、アリアンヌは他のメイド達と同じようにサロンに集まった。朝はリヒャルトの外出前にメイドは朝礼をするらしい。そこで今日の人員と各自の持ち場を確認する。アリアンヌは予定通りモーリスに付いて執務室での勤務だ。解散のときを狙って、アリアンヌは今日は出勤らしいエリスの元へと近寄った。人が良さそうに見えるよう意識した笑顔で、エリスに話しかける。
「はじめまして、エリスさん。私、アンナです」
エリスはいきなり話しかけられて驚いたのか、エプロンを小さく握った。
「あ、あの、私……」
「ごめんなさい。さっき、今日厨房にいると聞いたから……私、後で厨房に行くから、紅茶のこと、教えて貰えたらなって思って」
眉尻を下げて言うアリアンヌは、その表情が他人の庇護欲を掻き立てることを知っている。エリスも同様だったようで、慌てたように手を振った。
「え、あ。も、もちろん、私で良かったら……」
アリアンヌはその返事に、ぱっと笑顔を作った。先の約束をとりつけたことに安堵し、両手でエリスの手を握った。
「ありがとう!これからよろしくね!」
あえて余韻を残さず、アリアンヌは執務室へと駆けて行った。エリスも怪訝そうに厨房へと向かう。ニナはそんなアリアンヌ達を少し離れたところで見ながら、計算と無邪気が混ざっているアリアンヌの魅力に僅かに頬を染めていた。