まずはご挨拶
執務室にはモーリスがいた。アリアンヌが扉をノックし中に入ると、先にいたモーリスが先日と同じソファへとアリアンヌとニナを誘導した。
そこには、モーリスと同じくらいの年齢の、やはり使用人の制服を着た女性がいる。全員が座ると、モーリスが女性を紹介した。
「アンナ様、ご紹介します。ロージェル公爵家のメイド長をしているオリーヴです。私の妻でもありますので、何かありましたら気軽に申し付けてください」
オリーヴは座ったまま丁寧に礼をする。
「オリーヴと申します。アリアンヌ様、今回は二週間ということですが、何か至らないところがございましたら何なりとお申し付けくださいませ」
オリーヴは真面目な印象のする涼やかな濃茶の瞳を眼鏡の奥で軽く伏せた。アリアンヌは慌てて手を振って否定する。
「ミセス・オリーヴ、やめてください。私はこの二週間は、ハウスメイドの身。教えて頂くのは私ですわ。無理を言って申し訳ありませんが……」
「いいえ。実際に働いて我が邸の内情をお知りになりたいという心意気、そしてお忙しいリヒャルト様を近くで支えたいというその優しさ……私、感動しております」
アリアンヌはその言葉にモーリスの表情を窺った。目線を逸らしているあたり、どうやら理由はモーリスが勝手に伝えたことで間違いないらしい。アリアンヌとしては相談屋としての動きを大っぴらにできないので、気遣いだけは有り難い。しかし代わりの理由は、健気な令嬢らしく恥ずかしかった。
「……そのように仰らないでください。あと、ここでは私のことは『アンナ・エルーシャ』と」
頬を染めて言ったアリアンヌは間違いなく見た目健気な令嬢だった。確かにリヒャルトに会いたかったのも本当だった。アリアンヌの様子に満足げな笑顔になったオリーヴは、アリアンヌにここでの生活について伝える。
「本当にお可愛らしいご令嬢ですわ。リヒャルト様が羨ましい限りです。……ここでの生活ですが、貴女は『リヒャルト様の留守が多いので、補佐の為に雇った』ということにしています。雇用形態としてはハウスメイドですが、実際にはほとんどをこの執務室で過ごすことになると思います。ニナ様は一般的なハウスメイドとして、日々の仕事を割り振らせて頂きますのでご安心下さい」
アリアンヌは相槌を打ちながら聞いている。ポケットから取り出した手帳には、小さな文字で説明を書き付けていた。
「アンナ様はお客様への給仕などはしませんが、リヒャルト様には紅茶やお菓子をお出し頂いて結構です。その場合は一度厨房にきて頂ければ、そこでお湯や食器等の必要な物をお渡しします。……今日はもう夕刻になりますので、食事の席で同じ使用人の仲間に紹介します。仕事は明日からで結構です。リヒャルト様は夜八時頃に帰宅予定ですので、今日はご挨拶のみと聞いています」
オリーヴがモーリスを見ると、モーリスが説明を引き継いだ。
「リヒャルト様には『留守が多いので、二週間だけ執務の為にメイドを雇った』とだけ伝えています。リヒャルト様はご帰宅後お食事をされますので、アンナ様にはその後、執務室にてご挨拶をして頂きます」
「分かりました。二人とも、色々と世話になります。よろしくお願い致しますわ」
アリアンヌはにこりと笑って頷いた。
さすが公爵家と言うべきか、夕刻に集められた使用人用の食堂には、三十人もの人がいた。やや女性が多いが、警備兵はここにはいないということで、それを入れるとほぼ同数になりそうだ。
アリアンヌはモーリスに言われていた通りの場所にいる女性を確認した。依頼人のエリスだ。エリスは並ぶメイド達の中でも少し後ろの方にいた。赤茶色の髪を結い上げ、茶色の瞳を地味な眼鏡で覆っている彼女は、確かに俯きがちで自信なさげな様子だ。最初から近寄って警戒されるのは避けようと、アリアンヌはニナと共に普通に見えるように意識して挨拶をする。
「アンナ・エルーシャと申します。これからよろしくお願いします」
「ニナです。よろしくお願いします!」
二人に続いてオリーヴが場をまとめる。
「しばらくは慣れないと思いますので、何かあれば助けてあげてくださいね。では、食事にしましょう」
オリーヴの声でがやがやと皆が話し始める。エリスに近付くにはあまり賑やかに振る舞わない方が良いと思ったアリアンヌは、ニナと共に食事を終え、そっと自室へと戻った。
アリアンヌが本格的に働くのは、リヒャルトに挨拶が済んでからということだった。着替える訳にもいかず、アリアンヌがシャリエ伯爵家の本棚から持ってきた恋物語を読んでいると、しばらくしてオリーヴが訪ねてきた。
「リヒャルト様がお戻りになりました。アンナ様は執務室へいらしてください」
「オリーヴ様、こんな時間までお仕事ですの?」
アリアンヌの問いにオリーヴは苦笑した。
「私ももう戻ります。モーリスもそろそろ戻るでしょうし。リヒャルト様は、着替え等はご自身でなさってしまいますので、食事が終わって引継ぎが済めば、執事も従僕も、仕事は終わりなんですよ」
「そうなのですね。お疲れ様です、オリーヴ様。すぐに向かいますわ」
アリアンヌは立ち上がり、メイドの制服を確認した。リボンが少し曲がっているので、直してから行こうとブローチを外して結び直す。アリアンヌの行動を見て頷いたオリーヴは、挨拶をして部屋を出て行った。