ひとつの幸せ
アリアンヌはリヒャルトのエスコートで、王族席の前へと進んだ。リヒャルトは王族に対する礼をとる。アリアンヌもリヒャルトに従い、深くカーテシーをする。ラインハルトは興味深げに身を乗り出した。王族席の皆が、アリアンヌに注目していることを感じ、背筋が伸びる思いだ。
「面をあげよ。……ほぅ、リヒャルト。其方が女性をエスコートしてくるなど、初めてではないか。貴女は、シャリエ伯爵のご令嬢か」
ラインハルトはリヒャルトを揶揄うような口調で言った。周囲の貴族が注目しているのがわかる。ラインハルトの言葉に、アリアンヌは緊張しつつ口を開いた。
「はい。私は、シャリエ伯爵の娘、アリアンヌでございます。本年の豊穣に感謝し、来季もより多くの幸福を賜りますことを」
アリアンヌの挨拶は、クローリス王国の感謝祭の決まり文句だ。王族から庶民まで、今日はこの言葉で挨拶をするのだ。
「アリアンヌ嬢にも、多くの幸福を賜りますよう。良い子じゃないか、リヒャルト」
挨拶を返したラインハルトは、リヒャルトを見た。その後ろではフェリシアンも興味深くアリアンヌとリヒャルトを見ている。リヒャルトはちらとアリアンヌを見ると、美しい顔に笑みを深くした。
「陛下におきましては、私とアリアンヌ嬢の婚約をお認め下さいまして、誠にありがとうございました。父上、母上。ご健勝のことお喜び申し上げます」
リヒャルトのその声は、若者にしてはやや低く、落ち着いた艶のある声だった。王族席の周囲から、水を打ったように静まり返っていく。
王族席は混乱の様相を呈していた。ラインハルトは思わずといったように椅子から立ち上がり、その妃はラインハルトの手を嬉しそうに握っている。後ろでは何も知らなかったフェリシアンとカトリーヌ、そしてツェツィーリエが目を丸くして固まっていた。
「リヒャルト様……」
アリアンヌの小さな呟きすら、大広間に響いてしまうほどの静寂の中で、苦笑したリヒャルトが口を開いた。
「お騒がせ致しまして申し訳ございません。……父上、せっかく体調が良さそうなのに、そんなに驚いていては心臓が止まってしまうやもしれませんよ」
「お前のせいだろうが!馬鹿息子!!」
フェリシアンが威厳のある低い声でリヒャルトに向かって怒鳴る。リヒャルトは礼を崩し、フェリシアンに言い返す。
「大体、父上が病気などになるからいけないのです。私と兄上がどれだけ苦労したか……さっさと治して王城に来て、せいぜい適当な役職作ってそれなりに仕事してください」
リヒャルトの言いようにアリアンヌは目を丸くした。先代王と国王の前で何を言っているのかと思ったが、冷静になればリヒャルトにとっては父親と兄弟たちだ。
ラインハルトは面白くて仕方ないのか、声を上げて笑い、目尻に滲んだ涙を拭っている。
「リヒャルトの言う通りですよ、父上。 あぁ、リヒャルト……婚約おめでとう」
「ありがとうございます、兄上。ではまた後ほど」
「ありがとうございます、陛下」
リヒャルトに続き、アリアンヌもラインハルトの祝いの言葉に礼を言う。次の人が待っているので下がろうとするリヒャルトに、ツェツィーリエが声を上げた。
「──リヒャルト!貴方、声が……」
リヒャルトはそれを一瞥すると、何も言わずに、アリアンヌを連れて人混みの中へと溶け込んでいった。
その日、アリアンヌとリヒャルトはあちらこちらの貴族達に引っ張りだこだった。これまでラインハルトからの信頼が厚いとはいえ、前面に出てくることなく、声を失っていると言われていたリヒャルトが、公爵として歴史ある伯爵家の麗しい令嬢を婚約者に連れ、表立って声を発し、王族と対等な様子で──家族だから当然なのだが──会話をしたのだ。それはクローリス王国の貴族にとっては、政界の権力を大きく動かす大事件だった。
渦中のリヒャルトは次から次へと婚約の祝いの言葉を述べにくる貴族達の相手をしている。隣で微笑むアリアンヌは、そろそろ頬が引きつってきた。
「──すいません、ちょっと」
リヒャルトが挨拶を切り上げ、アリアンヌを連れて人の少ない方へ移動した。そして、アリアンヌを優しく見下ろす。
「アリアンヌ嬢、大丈夫?疲れたでしょう」
給仕から果実水を貰い、それをアリアンヌに差し出す。お礼を言ってそれを受け取ったアリアンヌは、小さく溜息を吐いてそれを一口飲んだ。アリアンヌは先程までとは違い、リヒャルトに柔らかく微笑む。
「仕方ないでしょう、今日は」
「そうだな、ありがとう。でも私も久しぶりで、そろそろ挨拶には疲れてきてしまったよ。だからもし宜しければ──」
リヒャルトは悪戯な子供のように言うと、アリアンヌへと左手を差し出してきた。ダンスに誘う合図だ。
「一緒に踊ってくださいませんか。私の『妖精姫』」
アリアンヌはまっすぐ向けられるエメラルドグリーンの瞳に魅入られ、目を逸らせない。
「はい、喜んで。私の運命の『王子様』」
アリアンヌは声を上げて笑い、リヒャルトの手を取った。
流れる音楽に合わせてくるりくるりと踊るリヒャルトとアリアンヌは、会場の貴族達から羨望の目を向けられていた。アリアンヌのドレスは翻るたびにシャンデリアの光を反射し、髪飾りの蝶は動きに合わせまるで本当に舞っているようだ。
アリアンヌに向けられるリヒャルトの瞳は優しく、アリアンヌも嬉しさから目を細める。
「アリアンヌ、──愛しているよ」
「私も愛してるわ、リヒャルト様」
耳元で囁かれた言葉は魔法のように、アリアンヌを幸福な気持ちにさせた。そしてリヒャルトも、いつまでも二人きりの世界で踊り続けていたいと願うのだった。
これにて第1章(出逢い編)完結です!
次回より、第2章(婚約編)に入ります。
引き続きよろしくお願いします!