アリアンヌの婚約
「申し訳ない。陽が傾いてきてしまったね」
リヒャルトはそう言って立ち上がり、アリアンヌに手を差し出した。アリアンヌはその手を取り、リヒャルトに連れられて四阿を出た。少し離れたところを、ナタリーが使われていないアリアンヌの日傘を手に持ち従っている。
一歩そこから出ると辺りは秋薔薇が華やかに夕陽に照らされ、よりその紅を深くしているようだ。その光景にほぅと息を吐いたアリアンヌに、リヒャルトは微笑み、右膝を立てて跪いた。咄嗟に怯んだアリアンヌの右手をそっと掴む。
「リヒャルト様?!何を──」
アリアンヌは驚き目を丸くする。リヒャルトは真面目な表情でアリアンヌの瞳を射抜いた。エメラルドグリーンの瞳は、意志の強さを滲ませている。
「お話した通り、私は臆病な男です。王家の事情や問題もあり、決して良い結婚相手とは言えないでしょう。──ですが私は、貴女を愛しています」
秋の終わりを感じさせる少し冷たい風が吹く。庭の秋薔薇やダリアが小さな音を立てて揺れている。リヒャルトの赤銅色の髪もアリアンヌの亜麻色の髪も、風に靡いて揺れていた。リヒャルトの熱を含んだ声は、澄み渡った秋の空気に溶けていく。
「貴女を生涯守り抜くと誓います。その為なら怖れなどいくらでも捨てて見せましょう。だからアリアンヌ嬢──どうか、私と結婚してください」
「──……はい」
アリアンヌにはその言葉を口にするのが精一杯だった。言葉にならない想いが、胸を満たし涙として透き通る湖面のような碧い瞳から溢れた。リヒャルトは手にしていたアリアンヌの右手の甲に、触れるように優しく口付けを落とした。
「ありがとう。……今日はこの話をする為に来たのだが、なかなか言い出せず時間を取ってしまった」
立ち上がったリヒャルトは、アリアンヌの風で乱れた髪をそっと梳いた。サラサラと夕陽に染まった亜麻色の髪は、指の間をすり抜けていく。アリアンヌは髪の一本一本にまるで神経が通っているような錯覚に陥り、心が落ち着かない。しかし、言うべき言葉をまだ伝えていないと分かっている。勇気を出して、紅潮した頬を夕陽で更に赤く染めながら口を開いた。
「私も──リヒャルト様をお慕いしておりますわ」
アリアンヌの言葉に、リヒャルトは手の動きを止めた。咄嗟に言葉が見つからないのか、アリアンヌをじっと見つめている。
「ご安心なさって。リヒャルト様がもしもまた何かを失くされたとしても、『アンナ』が全て見つけて差し上げますわ!」
戯けたようにそう言って胸を張ったアリアンヌに、リヒャルトは笑って頷いた。
「そうだな。私には、有能な『相談屋』が側にいてくれるのだから」
アリアンヌとリヒャルトが客室へ戻ると、レイモンとアンベールが二人を待っていた。
「お父様、お兄様、只今戻りましたわ」
アリアンヌの後ろで姿勢を正したリヒャルトが、レイモンに向けて一礼した。
「本日はお時間を頂き、誠にありがとうございました。アリアンヌ嬢にも受け入れて頂きました。何卒、よろしくお願いします」
レイモンは不承不承といった様子で頷く。
「娘に何かあれば、いくら公爵殿と言えど承知しない。覚えておいてください」
その言い方は、家格が上の──まして王弟であるリヒャルトには不敬と言っても良いほどの言い方だった。しかし可愛い娘の婚約においては、アリアンヌが驚く程に一般的な父親の言動だった。
「お父様……」
アンベールやマリユスとは異なり、アリアンヌに対し、距離を取ってなかなか顔を合わせようとしなかったレイモン。アリアンヌは自分が嫌われているのではと思っていたが、今の父の姿を見ていると誤解であったのではと思った。
「ほら、二人共。そんなところに立っていないで、こっちにおいで」
アンベールが和かにアリアンヌとリヒャルトをソファーに招いた。それまでレイモンと向き合って座っていたのを、移動して隣り合わせに座る。その向かい側、空いたソファーにリヒャルトとアリアンヌは並んで座った。机の上には、三枚の紙が置いてある。一目見て上質だと分かるその紙には、サインを入れる所が二ヶ所ずつ空けられており、二ヶ所のうち一ヶ所にはそれぞれ既に名前が入れられていた。
「アリアンヌ。本当にロージェル公爵で良いのか。見目は良いし地位は高いが、相当に面倒な男だと思うぞ」
「父上、いい加減諦めてください。……アリアンヌも嬉しそうですから」
ここに来て文句を言うレイモンに、アンベールが重ねて言った。アリアンヌは嬉しさや照れが顔に出ているのを指摘され恥ずかしくなる。
「……アリアンヌ、では、ここに名前を」
アリアンヌがレイモンに示されたのは、婚約の誓約書だった。クローリス貴族の婚約では、一枚は国王に提出し、残りの二枚はそれぞれの家に保管される慣わしである。アリアンヌとリヒャルトの婚約期間は一年間だ。その間に挙式の準備と花嫁修業を行うこととなる。
「はい、お父様」
アリアンヌは先にリヒャルトの名前が入っている三枚の書類全てに、自らの名前を書き入れていった。一枚をレイモンが丸めてしまい、もう一枚を丸めてリヒャルトがしまった。残された一枚は、通常では男側の父親が提出する慣わしである。
「ロージェル公爵殿、貴殿のお父上は先代国王でいらっしゃる」
レイモンの言葉にリヒャルトは頷いた。
「はい。現在は田舎で療養中の為、王都へ書類を提出しにだけ来るというのは難しいでしょう。可能であれば、私とシャリエ伯爵殿と共に提出に参上させて頂ければと存じます」
レイモンは納得した様子でリヒャルトに相槌を打った。アンベールは苦笑してリヒャルトに言った。
「なんだか、しっかり外堀埋めて色々考えてきてるねぇ、リヒャルト君」
リヒャルトはそれに苦笑で返す。
「私も必死ですから。これ程に夢中になれる人など、今後二度と現れないと確信しているので」
「そう、それだよ。君がそんなに情熱的だとは知らなかったな」
アンベールが揶揄うように言ったその言葉に、リヒャルトはどう返せば良いか分からないでいるようだった。
「お兄様、あまりリヒャルト様をいじめないで下さいませ!」
アリアンヌが庇うと、アンベールはつまらないと言わんばかりに不満げな表情をしている。
「一年後には、私が義兄になるんだよ?……アリアンヌの義兄は国王様か。なんかすごいな、それ」
「お兄様っ!」
アリアンヌは真っ赤になった顔でアンベールに抗議する。アンベールはアリアンヌには優しい兄だが、リヒャルトが絡むと少し意地悪になるらしい。レイモンが呆れたように嘆息し、リヒャルトは苦笑を浮かべたままだ。
そして翌日には、レイモンとリヒャルトが揃って王城へと赴き、リヒャルトの呼び出しとあって慌てて場を整えたラインハルトが、婚約誓約書を受け取り、目を白黒させるのだった。