タウンハウスにて兄と
アリアンヌは、庭の奥にある四阿でナタリーに髪を簡単に結い上げてもらい、バスケットを隠し、子猫を抱き上げた。
もうすぐ17時になる。そろそろ、兄達が戻ってくるだろう。
「ナタリー、この子を綺麗に洗ってあげましょう。お兄様方が戻ってくる前に、ね」
悪戯な子供の様な笑みを浮かべ、アリアンヌは両手で抱いた子猫をナタリーへ差し出した。
「かしこまりました。ですがアリアンヌ様、宜しければ、是非お召し替えをお願い致します」
ナタリーの言葉にはっとアリアンヌは自らのワンピースドレスを見下ろす。子胸と袖が、茶白く汚れていた。
「大変だわ!このままでは、お兄様に怒られちゃうわ!」
アリアンヌは庭から屋敷への入り口で子猫を洗いに行くナタリーと別れ、まっすぐに自室へと向かう。屋敷の二階にある自らの部屋へと 走らないようにギリギリの速度で歩いていると、途中ですれ違いそうになったもう一人のアリアンヌ付きの侍女であるニナが小さく悲鳴をあげた。
「アリアンヌ様!?」
「……ニナ!部屋に戻って着替えをするわ。お兄様が帰っていらっしゃる時間よ!」
アリアンヌはニナを急がせて部屋へ戻り、頭から被り紐で結ぶタイプの着替えのしやすい菫色のドレスへと着替え、先程ナタリーに簡単に結い上げてもらった髪を下ろした。ニナは櫛を通し、耳の上に小花の髪飾りを差す。
「アリアンヌ様、一体、どうしてあんなに汚れていらっしゃったのですか?」
興味深げに薄茶色の瞳を見開き、ニナはアリアンヌに聞いた。アリアンヌは、嬉しさを隠そうともせず笑い、ニナに向き直る。
「よく聞いてくれたわ。ニナ、貴女にもお願いしたいの。……そろそろ、ナタリーが戻ってくるはずよ」
その言葉を待っていたように、入り口の扉がノックされた。
「アリアンヌ様、ナタリーです」
「入って」
扉が開き、ナタリーがタオルの塊を持って入室してきた。
「失礼致します。……アリアンヌ様!この子、見てください」
足早に近付いてきたナタリーが両手で抱えたタオルの中をアリアンヌが覗き込むと、蜂蜜色の大きな瞳とブルーグレーの豊かな毛を持った、可愛らしい子猫がいた。
「まあ!可愛らしいとは思っていたけれど、こんなに美しくなるなんて」
碧い瞳を丸く開き、破顔したアリアンヌに、ナタリーは嬉しくなる。様子を伺っていたニナも、目を丸くした。
「アリアンヌ様、お願いとはこの子猫のことでございますか?」
「そうよ。この子を保護できるよう、お父様とお兄様にお許しを頂くわ。ニナは一緒にお世話をお願いしたいわ」
「こんなに可愛らしい子猫のお世話を任せて頂けるのですね!」
実家でも猫を飼っていたニナは、その愛らしさに丸くしていた目を嬉しそうに細めた。ナタリーはそんなニナを横目に、安心していた。しかし、アリアンヌへ報告すべきことを思い出し、弛んだ口元を引き締める。
「ただ、洗っておりましたところ、左耳にピアスの様なものが付けられておりました。何方か、貴族の方に飼われていたのかもしれません」
ナタリーはその左耳の付け根、柔らかい長毛に埋もれた辺りをアリアンヌへ見せた。そこには、小さなエメラルドの石が金具によって付けられている。アリアンヌは一目見て、その石が上等なものであることに気付き、顔を顰めた。
「……このようなピアスが子猫に与えられているなんて、間違いなく貴族の家の猫ね」
「いかが致しましょうか」
「これでは、我が家の子にはできないわね。市場で拾ったことは隠しつつ、お父様方に相談しましょう。この子のご主人様を、探さなければね」
一度深く嘆息したアリアンヌは、子猫を抱いたナタリーを連れて部屋を出た。そろそろ兄が帰宅している頃である。まずは兄から攻略しよう。淑女らしい上品な笑みを浮かべ、帰宅した二人の兄がいるであろうサロンへと向かうことにした。
「アンベールお兄様、マリユスお兄様、お帰りなさいませ」
アリアンヌは二人を確認して声をかけた。サロンでは、暖炉の側でアンベールとマリユスが紅茶を飲んでいた。手元には、昨夜の途中であったチェスボードが置いてあり、会話をしながら続きをしていたのだ。
先に顔を上げたのは、アンベールだ。
「ただいま、アリアンヌ。良い子にしていたかい?」
アリアンヌを見て立ち上がると、悪戯に笑い、右手でアリアンヌにこちらに来るよう合図を送った。アリアンヌは笑みを深め、足早に兄の元へと足を進めた。
「お兄様、私はもう子供ではございませんのよ?心配なさらなくても、一人でお留守番くらい問題なくってよ。……でも、今日は良い子ではないかもしれませんわ」
その言葉にマリユスもチェスボードから顔を上げ、目を伏せたアリアンヌへと怪訝な目を向けた。
「おい、アリアンヌ。今度は何をしたんだ」
厳しい声のマリユスを一瞥し、アンベールは優しい顔つきで言葉を重ねる。
「僕らのお姫様は、良い子ではないと言う。では、一体何をしたのかな?」
アリアンヌはその声を受け、顔を上げた。
「今日お庭を散策しておりましたら、子猫が迷い込んでおりましたの。この辺りは貴族の家が並ぶ土地。きっと、どこかのお宅から迷い込んだのだと思うのです。どうか、この子の飼い主を探してくださいませんか?そして見つかるまで、当家に置いてあげたいのですけれど……」
一息に言うと、アリアンヌはじっとアンベールを見つめた。横からマリユスが怪訝に思っていることを隠しもせずに口を挟む。
「庭にいたから貴族の飼い猫かってのは、わからないんじゃないか?確かに最近、この辺りはタウンハウスに出てくる貴族の馬車も多く通るが、それだけでは……」
アリアンヌはナタリーに合図をし、子猫を受け取った。そして、二人にその耳を見せる。マリユスはピアスを見て納得した顔をしたが、アンベールは小さく顔を顰め、小さく呟いた。
「……彼奴」
アリアンヌはアンベールの口が動いたことには気付いたが、その言葉には気付かなかった。
「アンベールお兄様?」
心配し声をかけたが、アンベールは小さく首を振り、子猫からアリアンヌへと視線を移した。
「アリアンヌ、この子の飼い主は私達が責任を持って探そう。見つかるまで、アリアンヌが世話をするといい。お父様の許可は私が取る。心配しないで、名前でも付けてしばらく可愛がっておくれ」
柔らかい笑顔でそう言ったアンベールは、マリユスに視線を向けると、一度頷いた。今ひとつ理解していなかったマリユスだが、ただアンベールの常でない様子から何かがあると察し、アリアンヌに視線を向けた。
「そうだな、俺は小動物には好かれない。アリアンヌが言い出したんだから、責任持てよ!」
「まあ、マリユスお兄様ったら意地悪なんだから」
クスクスと笑ったアリアンヌは、アンベールの様子に疑問を持ちつつも、無事に許可を得ることができたことに喜んだ。
「ほら、その子にどこか寝床を作ってあげて。アリアンヌの部屋が良いだろうから、連れて行ってあげてくれるかい?」
「ええ、勿論よ。お兄様、ありがとう」
アリアンヌはナタリーを連れて自室へと引き返した。残ったマリユスは、アンベールに問いかける。
「兄様、何を考えているんです?」
アンベールはその感情を隠さず、首を左右に振った。
「まだ確認しなければわからないが、あの猫の飼い主に心当たりがある。あれは……」
言葉を切ったアンベールに、マリユスは胡乱に顔を向けた。アンベールは嘆息すると、マリユスを見て、口を開いた。
「……ロージェル公爵家の猫だ」