アンベールとリヒャルト
リヒャルトがシャリエ伯爵邸にやって来たのは、お昼を過ぎてしばらくした頃だった。
その日アリアンヌは、レイモンに午後に約束をしてあるとは聞いたものの、朝から落ち着けずにいた。レイモンとアンベールが在宅していては、事務所へ行くこともできない。ニナに代わりにポストを見に行ってもらい、依頼が入っていないことを確認した後、家の図書室に向かったが、特に読みたい本がある訳でもない。手に取った本が刺繍の図案だったので、それを参考に手慰みに刺繍で拾った子猫を刺し、ハンカチにする。自分で使う用に縁に花の模様を付け足した。
昼食後アリアンヌはリヒャルトが来る予定に合わせて服を着替えた。今日は長袖の紺色のワンピースドレスだ。胸元と袖口に白いレースがあしらわれ、腰は白いレースの大きいリボンで一度結んで背中に大きなリボンがくるデザインだ。裾は重ねた白いペチコートを覗かせている。腰と同じデザインの小さなリボンで緩やかにウェーブしている髪をハーフアップに纏め、胸元と髪のリボンにターコイズの飾りを付けた。
着替え終えて少し経った頃、ナタリーがアリアンヌの部屋に来て、リヒャルトが到着したことを伝えた。
「まぁ、お出迎えしなければ」
「それが……アリアンヌ様はお部屋でお待ちになるように、とのことです」
立ち上がったところをナタリーに止められる。
「お父様ったら意地悪なんだから」
「ふふ。お話が終われば、きっとすぐにお声がかかりますわ。それまで、紅茶でもいかがですか」
「……ナタリーとなら飲むわ」
拗ねた様子のアリアンヌに、ナタリーは朗らかに笑って紅茶を二杯分淹れた。私室にある小振りのテーブルにそれを置くと、アリアンヌも笑って椅子に座った。
それから一時間以上が経った頃、今日客室を担当しているメイドがアリアンヌを呼びに来た。アリアンヌは一階の客室へと向かい、その少し後ろをナタリーが付いてきている。
ノックした扉を開けて中に入ると、応接用のソファの片側にリヒャルトが座り、反対側にレイモンとアンベールが座っていた。アリアンヌが入室したのを確認して、レイモンは苦々しい顔をして立ち上がった。何か言いたげにリヒャルトを見るが、踵を返し無言のまま客室を出て行った。アンベールは一度嘆息すると、苦笑してアリアンヌを呼ぶ。アリアンヌは頷き、アンベールに近付く。アンベールはレイモンがいた場所まで横にずれて、アンベールがいた場所にアリアンヌが座った。
リヒャルトはシンプルなダークグレーのジャケットに、黒地に白いラインの入ったパンツを合わせた、しっかりとした印象の服を着ている。胸ポケットから覗かせた緑のチーフがリヒャルトの瞳と同じ色だとアリアンヌは思った。
ナタリーは客室のメイドから紅茶を受け取り、三人それぞれの前に置いて少し離れた場所で待機する。最初に口を開いたのはアンベールだった。
「アリアンヌ。いつの間にリヒャルト君と知り合ったんだい?」
「え……ええと、偶然ですわ」
相談屋のことはアンベールは知らないはずだ。困った表情のアリアンヌに、アンベールはクスリと笑った。
「いや、良いんだ。実はこのリヒャルト・ロージェル公爵──当時のリヒャルト・クローリス第二王子は、私のパブリックスクール時代の後輩なんだよ。薄情にも、卒業してから一度も連絡をしてこないけどね」
機嫌の良いアンベールとは対照的に、リヒャルトは気まずそうにアンベールを見ている。
「アンベール殿。その件については先程説明したと思うが──」
「しかもこの通り、話せないと聞いていたのに、それすら嘘だときてる。全く、信用ならない男だよ」
アンベールが首を左右に軽く振ると、リヒャルトは思わずといったように苦笑した。それに釣られてアンベールも笑う。
「からかわないでくださいよ。これでも私、今結構緊張してるんですから」
「ああ、悪い。だからこそ私が緊張を解してあげようと思ってね」
アリアンヌは目を丸くした。アンベールとリヒャルトの仲の良さもだが、リヒャルトが話していることにも驚きを隠せない。アリアンヌの様子に、リヒャルトは改めて姿勢を正して口を開いた。
「アリアンヌ嬢、今日は急に予定を変えて申し訳なかった。……流石に、ここで嘘を吐く訳にもいかないからね。先に事情を話していたんだ」
「そうでございましたの」
アリアンヌが一口紅茶を飲む。その拗ねた様子にアンベールは笑いを堪えた。
「まあまあ、アリアンヌ。男性には男性の話があるんだ、分かるだろう?」
「ええ、存じておりますわ」
「リヒャルト君、今日はシャリエ伯爵邸まで出向いてくれてありがとう。アリアンヌと、庭でも行ってみると良い。……まだ秋の花が残っているよ」
アンベールの言葉にリヒャルトは頷き、アリアンヌへと視線を戻す。サラサラの赤銅色の髪と、眼鏡越しではないエメラルドの瞳。リヒャルト・ロージェル公爵としての彼は、噂などよりずっと優しく、アルトの時より少し真面目そうだ。アリアンヌの好きなとけそうな笑顔で、リヒャルトは左手を伸ばした。
「アリアンヌ嬢、案内していただけますか」
「ええ、喜んで」
アリアンヌは恥じらいつつ、テーブル越しのその左手に右手を重ね、微笑んだ。