リヒャルトの初恋
そうして人々を眺めていて、リヒャルトは見つけてしまった。淡い緑色のドレスに、薄いピンクをアクセントにしたドレスを着た『アンナ』は、同じ髪色の年若く美しい男と踊っていた。二人の様子から気心の知れた仲であることが分かる。親族だろうかとリヒャルトは思った。町娘の服装をしていたのが嘘のように、彼女は会場のどの令嬢より儚い美しさを身に纏っている。曲が終わると、男のエスコートで彼女は端に寄ろうとしていた。彼女の美しさにアプローチをかけようとしているであろう男共を視線で牽制していたその男は、声をかけてきた中年の貴族と少し会話をすると、彼女を譲り、人混みの中へと移動していった。
リヒャルトは意図的に視線を逸らし、見ないようにした。この大広間にはツェツィーリエや他の貴族達もいる。彼女との関わりをここで気づかせる訳にはいかないのだ。
次に『アンナ』を見つけた時、彼女は壁を背に女性に囲まれているように見えた。様子を伺おうと、自然に移動するように距離を詰めた。キツい女性の声が僅かに聞こえる。それによると、どうやらその女性は最初に『アンナ』が踊っていた男性に相手にされなかったようだった。しかし、彼女は反論しようとしない。火に油を注ぐことになると分かっているからだろう。それでもエスカレートしていく言葉の暴力に、正体がバレないようそれとなく止めようとした矢先のことだった。鈴のようだと思っていた声が、悲鳴のように響いた。
「──貴女達だって、同じようなものじゃない!」
その言葉に彼女を囲んでいた令嬢達が騒ぎ出し、その中の一人が彼女が手にしていたグラスを奪ったのが見えた。
気付いた時には、飛び出していた。夜会服に何かが掛かったのと、驚いた令嬢がそのグラスを落としたことを理解し、その瞬間リヒャルトの全身を後悔が襲う。多くの視線がこちらに向けられていた。無言で立ったままのリヒャルトに、水を掛けた令嬢が唖然とした顔で名前を呼んだ。
周囲にいた令嬢達はその名前に驚き、皆一様に顔を見合わせると、青い顔をして蜘蛛の子を散らしたようにその場から去っていった。水をかけた令嬢は謝罪し、駆けつけた使用人からタオルを奪ってリヒャルトの服を拭こうとした。それを拒絶し、投げ捨てるように落としていったタオルを拾い、自らの夜会服を拭った。集まっていた周囲の視線はわざとらしく逸らされたが、興味深げにこちらを窺っている者が何人もいる。
苦々しい気持ちで夜会服にタオルを当てるリヒャルトの前に、彼女が移動してきた。夜会服の状況を確認し、リヒャルトからタオルを取ると、真剣な表情で軽く何度か叩くように拭っていく。彼女の髪から華やかで柔らかい薔薇の香りがして、リヒャルトを落ち着かない気持ちにさせた。細い腕や華奢な肩が、リヒャルトにまざまざとその存在を突き付ける。一部を編み込みハーフアップにしている髪が、動きに合わせふわふわと揺れ動く。その動き一つにも、リヒャルトは心乱された。
「あの……助けてくださってありがとうございました。お召し物が濡れてしまって申し訳ございません。殆ど目立ちませんが、お帰りになった後はお手入れを──」
言葉の途中で姿勢を正して顔を上げた彼女と、目があった。言葉を止めた彼女は、驚きの感情を顔に浮かべて、『アルト』と口を動かした。リヒャルトは知られてしまった事実に、これまでの関係が崩れていく音が聞こえる錯覚に陥り、悲しくなる。それを誤魔化すように笑うと、澄んだ湖面のような神秘的な碧い瞳が真っ直ぐリヒャルトの瞳を射抜いた。
「──アリーちゃん!」
止まった時間を動かしたのは、女性の声だった。はっとして振り返る彼女は、その姿を見つけると安心したように肩の力を抜いた。最初に踊っていた男も一緒のようだ。
「お姉様!……ごめんなさい、ご心配をお掛けしました。こちらの方が助けてくださったの」
リヒャルトに気付くと、女性は目を見開いて驚いた。リヒャルトは礼をとったその女性を止め、困惑している男に彼女が話しかける声を聞いた。
「お兄様、ご迷惑をお掛けしましたわ。ですが、これはお兄様が先に私に掛けた迷惑ですのよ?お断りするときも、女性には優しくしてくださいませ」
──そうか、この人は兄なのか。
しばらく会話した彼女の兄は、彼女の頭をぽんぽんと撫でる。その仕草は、確かに兄弟の距離感のそれだった。しかし彼女は、はっとリヒャルトを振り返る。かつて自らも同じように頭を撫でたことを思い出し、リヒャルトは眉間の皺を深くした。僅かに頬を染める彼女は、しかしリヒャルトの表情を見て、笑顔を貼り付け背筋を伸ばした。
「……私は、シャリエ伯爵の娘、アリアンヌでございます。ロージェル公爵様、本当にありがとうございました」
そうか。彼女はアリアンヌというのか。リヒャルトはこの状況で、それでも名前を知ることができて嬉しかった。しかしそれは密やかな優しい関係の終わりを告げる言葉でもあった。
目線を下げたアリアンヌは、優雅にカーテシーをする。姿勢を戻した彼女の瞳は、涙を溜めていた。それを見てリヒャルトは目を見開く。アリアンヌもまた、知り合ってしまったと思っているのだろうか。瞳から感情を読み取ろうとするが、リヒャルトには分からない。涙が今にも零れ落ちてしまいそうなアリアンヌの碧い瞳に、リヒャルトは戦う覚悟を決めた。
伸ばした右手をそっとアリアンヌの目尻に当て、左右の涙を掬い取る。そしてアリアンヌから一歩引いて姿勢を正すと、その左手を誘うように差し出した。それがアリアンヌを特別だと言葉より雄弁に語っているということを、リヒャルトは理解している。
「──はい」
アリアンヌは恥じらいの表情でリヒャルトの左手に右手を重ねた。驚く周囲の人々を置き去りに、リヒャルトとアリアンヌはダンスフロアとなっている大広間の中心へと歩みを進める。ラインハルトが、ツェツィーリエが、多くの貴族達が、きっと自分達を見ているだろう。
繋がりが欲しいと思った。泣かせたくないと思った。特別な女性だと思った。リヒャルトが望んだのは『アルト』と『アンナ』という仮初めではなく、真実、側にいられる関係だった。その想いの名前を、リヒャルトは今日、初めて知った。
次からアリアンヌ視点に戻ります。