リヒャルトの孤独
それから二日後、リヒャルトはもう一度アンナの事務所へ行くことにした。正体がバレているか確認する必要もあるし、実際に依頼してみようという気持ちにもなっていた。もう一度アンナに会いたいという気持ちもあったが、それは心にしまい込んだ。
そうして行った事務所には、誰もいなかった。覚悟を決めてきた分だけ脱力感がある。リヒャルトは、せっかく外出したのだから、探してない地区を探してみようと決めた。もうクラーラが居なくなって今日で十二日目だ。以前のように奪われたのでなければ、町で誰かに保護されていると信じたかった。似顔絵を描いた紙を持ち、人の多い商業地区で聞き込みをする。ガラティア市場で見たという人はいたが、その目撃証言も昨日今日のものではなかった。
リヒャルトが人を捕まえて話をしていると、どこからか視線を感じた。見渡すと、今日会えなかったアンナが女性二人を連れて歩いていた。リヒャルトはその姿を目にした途端、世界が止まってしまって自分の心臓だけが動いているような、奇妙な気持ちになった。急いで会話を切り上げ、アンナ達の元へと駆け寄る。
「こんにちは、アンナさん。私のこと覚えてる?」
「忘れるわけありません。二日振りですわ、アルト様」
二日前に事務所を訪ねてきて、用件も言わずに慌てて帰った男だ。印象に残らない訳がないと思う。アンナは今日は他の依頼があると言い、会話を切り上げようとした。すると、リヒャルトの背後から威勢の良い女性の声が聞こえた。
「あ、アンナさん!待ってたよ。今日は引っ越しの手伝い、よろしくね!」
引っ越しの手伝いと言ったか?この細腕で、何処ぞのご令嬢が?リヒャルトは怪我をしたりしないかと心配になる。なにせ目の前の彼女は、他のどの女性よりもか弱そうなのだ。一緒にいる女性二人は侍女か護衛だろうか。それにしても、無理な依頼を引き受けたものであるとリヒャルトは思った。通り過ぎようとしたアンナの左腕を、咄嗟に手で掴んだ。驚いたアンナは目を丸くして動きを止める。連れの女性にその手を振り払われた。詳しく聞くと依頼は指輪を探すことが主であると言う。リヒャルトは放っておけず、半ば無理矢理手伝うことになった。
結果から言えば、手伝いを申し出たのは失敗だった。パブリックスクールにいた頃の軍事演習で鍛えた荷造りの技は活かすことができたが、アンナとの距離を近付け過ぎてしまったのだ。リヒャルトはアンナがきっとどこかの貴族の令嬢であると確信している。子猫だけでも恐ろしかったのだ。この期に及んで貴族女性と親しくなると考えると、どうしても失うイメージが付き纏う。しかしアンナの側は居心地が良く、触れると心の氷が溶けていくようで、どうしても離れ難かった。
正体を問われ、咄嗟に誤魔化した。本来の地位で互いに繋がることで、アンナが『リヒャルトの知人』となってしまうことが怖かった。この関係が終わってしまうことも、アンナが消えてしまうことも、リヒャルトには受け止めることができそうになかった。
「いいえ、貴方は謝ることなどございません。今日は手伝ってくださって、本当にありがとう。アルトさんって、とても良い人ですね。……よろしければ私と、お友達になってくださいませ」
そう言った彼女は、リヒャルトの事情など知るはずもないのに、リヒャルトの一番触れられたくない場所を包み込むようだった。その優しさに甘えていたくて、しかし優しさを向けられているのは『アルト』であるという事実が、リヒャルトには酷く残酷だった。そして触れた手はリヒャルトの手よりも冷たく、小さく滑らかだった。
彼女が『アルト』と友人だと言ってくれた事実を彼女の元に残したくて、普段あまり使えないと言っていた、庶民向けの髪飾りを贈った。『アンナ』は自分の瞳の色だと思ったであろうステンドグラスの小さな蝶に、リヒャルトの瞳の色でもあると印象付ける。子供じみた言葉に顔を赤くした彼女は、リヒャルトの知るどんな女性よりも可愛かった。
次回の約束はそれから四日後。場所はアンナの事務所。リヒャルトが彼女に依頼をする約束だ。
リヒャルトにはその前に、王城の舞踏会に行かねばならなかった。ラインハルトとの関係をかつて暗殺未遂を企てた貴族達に見せつけるためだ。社交シーズンの始まりを告げる舞踏会は、最も多くの貴族が参加する、絶好の機会だった。
使用人に用意された夜会服に袖を通し、厳しい表情を鏡に映す。ここ数年で定着させた『ロージェル公爵』としての自分がしっかり作れていることを確認し、馬車で王城へと向かった。
リヒャルトがコールマンに呼ばれ一人で大広間に入ると、 僅かにざわめきが起こった。小声で噂をする貴族達を横目に、王族席を確認する。王族席には、ラインハルトとその妃と共に、先代王妃であるツェツィーリエもいた。リヒャルトは久し振りに会う実の母親の姿を、感情のない瞳で見つめた。
「リヒャルト、久し振りだな。元気だったか?」
リヒャルトが挨拶をすると、ラインハルトは嬉しそうに視線を向けた。リヒャルトは少し表情を緩ませ、頷く。ラインハルトはそれに、リヒャルトにしか分からない程度に顔を顰めた。ラインハルトには、今年に入ってから、もう声を出しても良いのではないかと何度も言われるようになっていた。ラインハルトが王位を継いで三年が経つ。まだ磐石とは言い難いが、それでも今リヒャルトが声を発し、それによって誰かが動きを見せたとしても、それを押し留め捕まえるだけの覚悟があるようだった。今話さずにいるのは、リヒャルトの恐れが原因だ。自らの預かり知らぬところで、またラインハルトや大切な何かや誰かに何らかの危害が加えられたらと思うと、『ロージェル公爵』の姿でいる時に、人前で声を出せなくなるのだ。
「今日はせっかく来たのだから、久し振りに会う人々とも挨拶すると良い。また今年の社交シーズンも、よろしく頼むよ」
リヒャルトは一礼し、王族席から離れた。ツェツィーリエの視線から逃げるように、意図して人だかりの中へと身を滑らせる。リヒャルトは自らの臆病さを忌々しく思い、眉間の皺を深くした。そしてそんなリヒャルトの周囲に人が集まるはずもなく、険しい顔のまま、誰とも踊ることもなく、ただゆっくりと葡萄酒を口にするのだった。
次話でリヒャルトサイドの話は一旦終わり、本編の時間軸へ戻ります。