リヒャルトとクラーラ
リヒャルトはロージェル公爵となってからも、変わらぬ日々を過ごしていた。王城で過ごした二年もの失い続ける日々は、リヒャルトを変えた。リヒャルトから多くを奪った人の影響がどこまで及ぶか判断できずに、新しい人間関係を築くことを恐れた。ラインハルトの執務を手伝い、共に語り合う時間だけがリヒャルトにとっての幸せだった。
──そんな日々が、三年続いた。
リヒャルトは二十一歳になった。ラインハルトの治世は安定してきていたが、相変わらず社交界ではツェツィーリエの影響力が強いままだ。これまでの間に、リヒャルトはかつて多くを奪ったのは自らの母であることを充分に理解していた。
ネーレウスの国王ディートヘルムと会うことになったのは、その年の春のことだった。友好の証として年に一度行われる両国貴族同士の国境上の会場で行われる夜会である。リヒャルトはラインハルトの頼みで出席した。ツェツィーリエは王城に留まるため、参加していない。
そこで出会ったネーレウスの国王は、リヒャルトの隣国へのイメージを大きく変える人物だった。
「クローリス王、一年振りだな」
ガハハと笑ったディートヘルムは、ラインハルトの背をバシバシと叩いた。
「あぁ、久しぶりです。ネーレウス王」
ラインハルトよりもかなり年嵩の、リヒャルトの父と同じくらいの年齢であろうディートヘルムは、豪胆で快活だった。あのツェツィーリエの叔父とは思えない。
「……なんだ、今日は男の連れがいるのか?珍しいな」
ラインハルトの横に立っていたリヒャルトは自分の話題になり、厳しい表情のまま礼をとった。リヒャルトが代わって紹介をする。
「私の弟のリヒャルトです。クローリス王国ではロージェル公爵を名乗っています。口がきけないので、私からの挨拶にさせてください」
ディートヘルムは興味深いものを見る目でリヒャルトを見た。リヒャルトは居心地の悪い思いを耐える。
「そうか。ツェツィーリエの息子はこの子か。……なかなか興味深い」
リヒャルトはその言葉に顔を上げた。ディートヘルムは近くにいた男に何事かを言いつけると、笑みを深くしリヒャルトに話しかけた。
「リヒャルト殿と言ったか。まだ若いのに、中々の目を持っているように見える。……そなたに預けたいものがあるのだ」
困惑するリヒャルトの肩にラインハルトがそっと手を乗せた。リヒャルトは頷き、先程の男が戻ってくるのを待つ。
「みゃう」
男が持ってきたのは籠だった。中から覗くブルーグレーの毛玉に、ラインハルトとリヒャルトは目を丸くする。夜会の会場となった建物の中で、その声だけがこの上なく場違いだった。
「そこにいるのは、私の育てている猫が産んだ子供なのだ。一匹、育ててくれるだろう?……なぁに、諦めの目をするのは、その倍以上生きてからで充分だ」
ディートヘルムはリヒャルトの何を聞き、何を理解しているのだろう。リヒャルトの前で、父親程も歳の離れたディートヘルムは、猫は良いぞと少年のように悪戯に笑った。
それからリヒャルトは、新しく加わったロージェル公爵家の一員に振り回されていた。クラーラと名付けたその子猫は、日々様々な場所を走り回り、行方不明になると棚の裏側で眠っていた。公爵家の使用人達は、いつ外へ出てしまうかと気が気ではない様子だった。
「リヒャルト様!クラーラが今度は庭で見つかりました」
モーリスの報告に嘆息したリヒャルトは、出入りの宝石商を呼ぶようにモーリスに指示した。すぐにやってきた宝石商は、目を輝かせてリヒャルトに聞く。
「ロージェル公爵様、本日はどの様なご要望でございましょうか」
リヒャルトは紙に書いておいた文字を見せた。
『娘にピアスを贈りたい』
「む、むむむ娘ぇ?!」
飛び上がらんばかりに驚いた宝石商に、モーリスが呆れて言葉を足す。
「娘と言いましても、この通り、子猫の事でございまして。……リヒャルト様、おふざけが過ぎます」
険しい顔のまま頷いたリヒャルトに、宝石商も反応に困った。
「そ、そう……可愛らしい娘さんでございますね。では、此方などはいかがでしょう」
そう言って宝石商はいくつかの石を並べた。リヒャルトはエメラルドを選ぶと、モーリスと宝石商を残して席を立った。モーリスはリヒャルトの代わりに、ピアスの詳細を打ち合わせていく。意匠まで決まると、宝石商は満足げな表情で館を辞した。
「いや、流石ロージェル公爵様。猫にこの価格の石をお贈りになるなど」
「この事は他言無用でお願いしますよ。どこかに漏れたら、今後のお付き合いを検討せねばならなくなりますので」
「……は、はい。勿論でございますとも!」
そそくさと退散して行った宝石商に嘆息したモーリスは、リヒャルトがいる執務室へと向かった。モーリスが入室して扉を閉めると、リヒャルトがモーリスを近くに招いた。
「ありがとう、モーリス」
リヒャルトは密やかな声で礼を言う。
「いえ。何かを大切に思うことは、リヒャルト様にとって大変良いことです」
モーリスの言葉にリヒャルトは苦しげに顔を顰めた。その膝の上には、丸くなって眠るクラーラがいる。執務をしながらも、左手で撫でていたのだ。リヒャルトは手元のメモ紙にサラサラと書き付けた。
『クラーラは何処かへ連れ去られはしないだろうか』
懇願するようなその言葉に、モーリスは頷いた。
「私共が、必ずやお守り致します」
『ありがとう』
リヒャルトは眉間の皺を緩め、モーリスの手を握った。
だからこそ、クラーラが居なくなるという事件は、リヒャルトに大きな衝撃を与えた。それは、ラインハルトと会う回数を減らしてでも優先してしまう程だった。失うことに慣れてしまったリヒャルトは、それでも失うことは怖かったのだ。小さな子猫にこれほど心乱される自らを責めながら、それでも寝る間を惜しんで町へと探しに出掛けた。アリアンヌと出会ったのは、そんな時だった。
ともかく今日中に希望を見せたかった……!