市場での出逢い
初投稿です。よろしくお願いします。
「貴方が、この市場を騒がせた鮮魚盗難事件の、真犯人ですわ!」
シャリエ伯爵令嬢であるアリアンヌは、空色の簡素だが上質なワンピースドレスを翻し、裾からペチコートの白いレースを覗かせると、振り向きざまにピンと伸ばした人差し指を犯人に突き付けた。
「みゃう」
指を突き付けられた毛玉は、蜂蜜色の瞳を見開き、警戒して動きを止める。
午後三時、日が傾いてきたガラティア市場には、朝の喧騒が嘘のように、動物達しかいない。少し離れたところで様子を伺っていた侍女のナタリーは、溜息を吐かないよう慎重に言葉を発した。
「アリアンヌ様、それは存じておりますわ。今回の依頼は、犯人の特定ではなく、駆除でしたかと思われますが……」
「駆除なんて、可哀想じゃないの。この子、まだ子供よ。きっとお母様と逸れてしまったか、どなたかに捨てられてしまったのよ」
「では、どのようになさるおつもりでしょう。このままにする訳には参りませんわ」
「連れて帰ってシャリエ家の子にするわ。こんなに痩せてしまっているけれど、きっと綺麗になるはずよ」
アリアンヌは犯人の目星がついた時に購入した保存用に加工された魚を包装紙から取り出すと、それを餌に警戒した毛玉──もとい、子猫を寄せ付け、伯爵令嬢とは思えぬ素早い動きで、持っていた蓋のついたバスケットへと、包装紙ごと子猫を押し込んだ。
「これで、依頼完了ね!」
満足気にパラソルを差しナタリーを振り返ったアリアンヌは、上品で儚気な雰囲気を演出するはずの澄んだ湖面の様に碧い瞳を好奇心と喜びに輝かせ、町娘風に低い位置にリボンで二つに結わえられた艶やかに輝く亜麻色の髪を揺らした。
クローリス王国は、中央大陸東部に位置しており、建国から300年が経つ、自然豊かな国だ。北方と西方の他国との境には高い山脈が聳え、南方は友好国であるネーレウスとの貿易路が開かれている。東方は海に面しており、多くの知識や技術が港から王国へと輸入されていた。
王都ナパイアはその東方に位置している。賢王の治世が続き、技術、文化ともに豊かに発展したクローリス王国の王城と城下町は、その白い壁と青い屋根を持つ建築様式から「大陸のサファイア」と呼ばれ、国内ひいては友好国からは憧れの町として讃えられている。
そして王国はその広大な領土を、建国時に貢献した一族と、その後王国の成長に貢献した一族を貴族とし、分割し領地として治めさせていた。
シャリエ伯爵領は、クローリス王国の中心部の西北西の方角にあり、麦を栽培する広大な農地と、鉱石の採掘が行われる険しい山脈を持つ。資源の豊富なその領地は、建国時に賜った際にはただの野と山であったという。アリアンヌの父より遥か以前の伯爵が、領民と共にその土地を開墾し山を開拓した物語は、冒険譚として領内で人気があるらしい。
そしてシャリエ伯爵家では、貴族としては珍しく「他人に寄り添い、共に乗り越える」ことを家訓としている。今代当主も領民との対話を重視し、広く領地に足を運び、寄り添うように問題を解決し、今日もシャリエ伯爵領は緩やかな発展を続けている。
シャリエ伯爵家当主であるアリアンヌの父レイモンは勿論、22歳の長兄のアンベールもまた、領地を巡り領民と対話する温厚な人物だ。そして、次兄のマリユスは、まだ18歳ながら、領地経営については王都から招いた家庭教師とも対等に語り合っている。
アリアンヌが幼い頃に亡くなった母のレティシアも、教会や孤児院を慰問し、奉仕活動を積極的に行っていたらしい。
去年の冬に15歳で社交界デビューを果たしたアリアンヌも、領民と語り合い、寄り添い、共に乗り越えることを望んだ。お忍びで町へ足を運び、町娘の「アンナ」として領民と関わり、そして、アリアンヌは自らの奉仕活動のあり方を決めた。
教会と孤児院への慰問を行い、家庭教師との問答や淑女としてのマナーを学ぶ。貴族の家に生を受けた淑女としての義務だ。しかし、アリアンヌはその義務に塗れた日常に、大変に退屈していた。
そんな彼女が決めた自らの奉仕活動は、その退屈な日々を、図らずも大きく動かした。今日まで、アンナは「相談屋」として、領内と王都で困っている人に寄り添い、様々な事件を解決へと導いてきたのだ。
冬が近付き、社交シーズンの開始を知らせる王城の舞踏会を前に領地から王都に出てきたアリアンヌの元に一週間前に舞い込んだ依頼は、「朝の市場で魚を盗っていく生き物を退治してほしい」というものだった。
議会が重なり忙しい父と、視察と学問で留守がちな兄達の目を盗んで外出を重ね、アリアンヌは犯人が少し前から市場を彷徨っている子猫であると特定した。そして満を辞して今日、アリアンヌは町娘風に変装し、乗合馬車を乗り継ぎ市場へ赴き、子猫を保護したのだった。
帰りは呼んでいた辻馬車に乗り、まっすぐにタウンハウスを目指している。馬車には、侍女のナタリーも同乗していた。
「でも、この子猫を連れて帰って、旦那様はお許しくださいますでしょうか」
ナタリーは内心の不安を、思わずといったようにアリアンヌに溢した。レイモンは情に厚いが、当主としての冷徹さもまた併せ持っている。それは当主として、望まずとも身に付いた性質であるようだった。ナタリーの母がアリアンヌの乳母だったため幼い頃はアリアンヌと姉妹のように育ったナタリーだが、使用人として、当主の顔をしたレイモンをアリアンヌより多く見ていた。
「お父様はお優しいわ。大丈夫、『ガラティア市場で拾った』と言わなければ良いのよ!」
「アリアンヌお嬢様……」
ナタリーは泰然としたアリアンヌに笑顔が引き攣った。アリアンヌはそんなナタリーに、自信を持って満面の笑みを返す。
「安心して。お父様はタウンハウスへ移ってから、もうずっと一緒にお食事もできていないのですわ。この子も、お庭に迷い込んだことにしても、誰にもわからないはずよ。知っているのは、そうね……ナタリーと、ニナたちくらいかしらね」
ニナはアリアンヌ付きの侍女の一人である。アリアンヌの侍女たちは奉仕活動についても知っており、子猫の一匹くらい、今更なことだった。
いずれにせよ、アリアンヌにはもう子猫を連れて帰る以外の選択肢は残っていない。こんなに可愛い子を、どうして置いて帰れるだろうか。お父様もお兄様方も、王都に出てきてからずっとアリアンヌを放って出かけてばかり。勿論それが貴族の義務の一環であることは理解しているし、アリアンヌ自身も先日は平民の子供の教育機関を何軒か訪れ、幾らかの寄付を行なっていた。しかし女性は男性と異なり、自らの足で市井を歩くことは稀である。伯爵令嬢のアリアンヌもまた、本来であれば自ら市場の子猫を捕獲するなど、ありえないことであったが、アリアンヌには、それらのことが不満だった。
だからこそ、こうしてお忍びで「相談屋」なんてことをしているのだが──
アリアンヌはシャリエ伯爵家のタウンハウスの裏手で馬車を降りると、裏口の鍵を開け、そっと庭へと戻った。