王城の舞踏会3
「……貴女は少し、身の程を知るべきだわ」
飲みかけの果実水の入ったグラスを取り上げられ、低い声でポレットが言ったとき、アリアンヌは果実水をかけられると覚悟した。咄嗟に身体が強張り、目を閉じる。
──パシャン、パリンッ
水音と、少し置いてガラスが割れる音がした。アリアンヌは冷たくも痛くもないことに疑問を覚え、ゆっくりと閉じた目を開ける。
視界に映ったのは、細身で筋肉質な身体を濃紺に金がアクセントに使われている夜会服に包んだ、赤銅色の髪の男性の後ろ姿だ。呆然とするアリアンヌは、顔を青くしたポレットの声でその人の名前を知った。
「ロージェル公爵様……」
周囲にいた令嬢達はその名前に驚き、皆一様に顔を見合わせると、青い顔をして蜘蛛の子を散らしたようにその場から去っていった。残されたのは、アリアンヌとポレットと、夜会服に果実水をかけられたロージェル公爵。
ポレットはアリアンヌにかけようとした果実水を、アリアンヌの前に飛び込んできたロージェル公爵に掛け、驚きからグラスを落として割ってしまったらしい。
「も……申し訳、ございません」
慌てて謝罪したポレットは、駆けつけた使用人からタオルを奪うと、ロージェル公爵に近付き、濡れた夜会服を拭こうとした。ロージェル公爵はそれを軽く突き離して首を振る。手で追い払うような動きをしているので、いいから早く消えろという意思表示だろうか。ポレットは慌てた結果、タオルをその場に放ったまま人混みの中に逃げていった。
ロージェル公爵はそれを拾い、自らの夜会服を拭っている。集まっていた周囲の視線はわざとらしく逸らされ、表面的には何事もなかったかのようだ。
遅れて状況を理解したアリアンヌは、ロージェル公爵の前に回り、夜会服の状況を確認した。夜会服の上着は、胸から腹にかけて濡れているようだ。アリアンヌはロージェルからタオルを奪うように取り、少し屈んで、濡れた上着をタオルで軽く何度か叩いた。アリアンヌはロージェル公爵に突き離されることなく作業を続ける。この様子なら染みにはならないだろう。果実水で良かった。しばらく叩いていると、起毛素材であったために、殆ど乾いているように見えるようになった。アリアンヌは姿勢を変えずに礼を言う。
「あの……助けてくださってありがとうございました。お召し物が濡れてしまって申し訳ございません。殆ど目立ちませんが、お帰りになった後はお手入れを──」
言葉の途中で姿勢を正して顔を上げたアリアンヌは、そこにあった顔に驚き、言葉を止めた。アリアンヌはこれまで、リヒャルト・ロージェル公爵という男を直接見たことがなかった。
クローリス王国の貴族に名前を知らない人はいないであろうその人。現王の弟で、前王の正妃の第一子。三年前に臣下に下った、常に厳しい表情を崩さないという噂の、王の相談役。気に入らない貴族は一切の容赦なく追い詰めるだとか、社交嫌いで王城の行事にしか顔を出さないだとか、また声を出せない理由についての憶測まで、アリアンヌも様々な話を聞いていた。直接会ったことがなかったのは、レイモンがアリアンヌの近くに兄弟以外の男を置こうとしなかったからであり、アリアンヌがデビューしたときにリヒャルトは既に臣下に下っていたため、王族席にいなかったからだろう。
今アリアンヌの前に立っているその人は、赤銅色の整えられたサラサラの髪に、エメラルドグリーンの宝石のような瞳を持っていた。いつも厳しい表情を崩さないと聞いていたその顔は今は哀しげな笑みを浮かべており、エメラルドの瞳はアリアンヌをまっすぐ見つめている。髪はウェーブではなく、眼鏡を掛けてもいない。しかし瞳はアリアンヌの知るものと同じだった。
──アルト様
呟いた名前は音になることはなく、ただ口だけが動く。アリアンヌはリヒャルトの瞳を見つめたまま、時が止まってしまったように動けなかった。
「アリーちゃん!」
その時間を動かしたのは、リゼットが心配そうにアリアンヌを呼んだ声だった。はっとして振り返ると、リゼットがマリユスと共にアリアンヌの元へとやってきていた。
「お姉様!……ごめんなさい、ご心配をお掛けしました。こちらの方が助けてくださったの」
視線でリヒャルトを示すと、リゼットは大きな目を更に見開き驚いた。
「公爵様?!……私の未来の義妹が大変ご迷惑をお掛けしました。ありがとうございます」
リヒャルトは礼をとろうとするリゼットに、必要ないと手を動かして示す。マリユスは困惑の表情で、アリアンヌとリヒャルトを交互に見ていた。アリアンヌはマリユスに笑顔を見せる。
「お兄様、ご迷惑をお掛けしましたわ。ですが、これはお兄様が先に私に掛けた迷惑ですのよ?お断りするときも、女性には優しくしてくださいませ」
朗らかな表情の分、そこには怒りが滲んでいた。マリユスは両手を胸の前でぶんぶんと振った。
「悪かった、悪かったって。今度甘いものでも買って帰ってやるから許せ」
「……仕方ありませんわね」
肩を竦めたアリアンヌの頭をマリユスはぽんぽんと撫でた。アリアンヌはその仕草に、はっとリヒャルトを振り返る。かつてアルトにも同じように頭を撫でられたことを思い出したのだ。僅かに頬を染めたアリアンヌに、リヒャルトは眉間の皺を深くした。その表情にアリアンヌは小さく傷付くが、笑顔を貼り付け背筋を伸ばした。
「……私は、シャリエ伯爵の娘、アリアンヌでございます。ロージェル公爵様、本当にありがとうございました」
目線を下げ、出来るだけ優雅に見えるよう、カーテシーをする。互いの正体を知ってしまった今、アルトが言い淀んだ理由も分かる。何に苦しんでいるかはアリアンヌには分からないが、きっと苦労や柵が多いことは分かってしまう。約束した明後日など、このまま来ないのかもしれないと、アリアンヌは悲しくなった。姿勢を戻しリヒャルトを見つめたアリアンヌの瞳は、別れの予感で涙を溜めていた。それを見たリヒャルトは目を見開いた。
その時音が一度止み、音楽が変わった。華やかなワルツだ。リヒャルトは逡巡するように僅かな間表情を消したが、次の瞬間には距離を詰め、伸ばした右手をそっとアリアンヌの目尻に当てた。優しく左右の涙を掬い取る。驚いたアリアンヌから一歩引いて姿勢を正すと、リヒャルトはその左手を誘うように差し出した。
「──はい」
リヒャルトに言葉はなかったが、その意味を正しく理解したアリアンヌは、恥じらいの表情でその左手に右手を重ねる。驚くマリユスとリゼットを置き去りに、リヒャルトのエスコートで、二人はダンスフロアとなっている大広間の中心へと歩みを進めた。