ニナの苦悩とマリユスの決心
リクエストにもありました、マリユスとニナの番外編です。事件解決からアリアンヌとリヒャルトの結婚の間の出来事です。
楽しんで頂けると幸いです!
議会が終わり、アリアンヌ達は領地のマナーハウスへと戻ってきた。王都で起きた様々な事件もすっかり片付き、アリアンヌはリヒャルトからオフシーズンにも会えると手紙をもらったと喜んでいた。全てが丸く収まったと思われたが、解決していない問題もあった。
「ニナ、いつになったら頷いてくれるんだ」
「──存じません!」
場所はシャリエ伯爵邸の鍛錬場だ。鍛錬場はタウンハウスのものより大きく、日中は領地の護衛を勤める者達が交代で汗を流している。しかし夜になってしまえば、そこには誰もいない。昨年まではニナだけの訓練場所だったのだが──今は、毎晩のようにマリユスがそこに押し掛けていた。
「とはいえ、俺だって簡単に譲れない。こんなに興味を持てる女性に出会ったのは初めてだ」
アリアンヌの周囲がばたついていた時にはニナと距離を置いて裏で何かと走り回っていたマリユスだったが、その件がすっかり片付くと、それを待っていたかのように、全力でニナを口説き始めた。ニナは最初の内こそ困惑してやんわりと断っていたが、十回を越えてから、はっきり拒絶を示すようになっていた。
「またそのようなことを仰って、私を困らせないでください!」
「いや、困らせるつもりはない。ただ結婚してほしいと言っているだけだろ」
「それを困らせると言うのです……」
侍女として働くニナにとっては、マリユスは主家の次男だ。万一のことなどあってはならないと思うのに、マリユスはそれを理解していないのかと疑うほど当然のようにやってくる。
「それに、私はアリアンヌ様の侍女です。これからもそうでありたいと思ってます」
ニナはマリユスに一礼し、そそくさと鍛錬場を後にした。明日は領地の父に呼ばれている。早く休まねばならなかった。一人残されたマリユスは、つれない態度のニナの背中に嘆息する。アリアンヌの侍女でいたいというニナの願いは純粋で、マリユスにとっては尊く感じられた。だからこそ、これからのニナが心配だった。
「──お父様、今何と仰いました?」
久しぶりに帰省したベロム男爵邸のサロンで、ニナは呆然と目の前にいる父親を見た。ベロム家はシャリエ伯爵家と縁のある貴族で、領地も近い。充分に日帰りができる距離だった。
「来週見合いをするから、相手の釣書を読んでおけと言ったんだが……」
ニナがあまりに驚いた態度を見せるので、ベロム男爵の方が驚いた。
「ですが私、今はシャリエ伯爵家のアリアンヌ様にお仕えしていて……」
いつも明るいニナらしくなく、どうしても不安になる。男爵は一度深く頷き、口を開いた。
「それだが、アリアンヌ嬢は次の秋で結婚するだろう。ニナは伯爵殿に雇って頂いていたから、丁度良い時期だし、そろそろ婚約して花嫁修行をするのが良いと思ってな」
「そんな──」
「いや、本当に侍女に出して良かった。ニナ、家にいた頃よりずっと所作が綺麗になったぞ。さすがシャリエ伯爵殿だ」
息を飲んだままのニナに、男爵はにこにこと告げる。そうして思い出した。ニナはベロム男爵家の一人娘だ。シャリエ伯爵家のアリアンヌに仕えることができたのも、将来、家の為に嫁ぐときの為だ。ましてベロム男爵家など、上位貴族に吹かれればすぐ消えてしまうような立場だ。ニナは、すっかり忘れてアリアンヌとナタリー達の優しさに浸っていた自分が、どれだけ愚かであったかを突きつけられた気持ちだった。諦めにも似た覚悟で、ニナは口を開く。
「──釣書を。相手はどなたですか?」
「バルリエ子爵家の次男だ。王城に騎士として仕官しているらしい」
男爵は釣書をニナに手渡した。ニナはそれを開いて相手の仕事や家柄等に目を通していく。見る限り、高望みでもなく、逆に妥協した相手でもないようだった。今のベロム男爵家にとっては、最良に近い相手だろう。
「分かりました。では、来週こちらに帰ってきます」
「そうか。当日はあちらに伺うことになる。前の日の夜には帰って来なさい」
ニナは頷き、釣書を持って席を立った。
「はい。──今日はもう失礼します」
「気をつけて戻りなさい」
ニナは逃げるようにその場から立ち去った。いってきますと言うつもりは無かった。ただ、少しでも早くアリアンヌとナタリーの顔を見たかった。そしてマリユスの間抜けな声を聞きたかった。
「おかえり、ニナ。……何かあったのかしら?」
シャリエ伯爵邸に帰ってきたニナに、アリアンヌは心配そうに眉を寄せた。ニナはどうしていいか分からず、咄嗟に釣書を背中に隠す。
「い……いえ!大丈夫です!」
「……そう?」
「はいっ!ええと、今日はお休みありがとうございました!明日またよろしくお願いしますっ」
ニナはまた逃げるように走り出した。今日はらしくもなく逃げてばかりだと、自らを叱咤する。揺るがない強い者になりたかった。今日のニナは、本当に揺らいでばかりだ。夜になって鍛錬場に足を運んだのも、訓練の為か、マリユスに会いたかったからか、分からなかった。
「──ニナ、どうした?」
いつものようにやってきたマリユスは、鍛錬場の端で身体を動かすでもなく座っているニナに目を見張り、慌てて駆け寄ってきた。隣に座ると、窺うようにニナの顔を覗き込む。
「いえ、ええと……」
「どうした?」
ニナは視線を逸らして俯いた。持ってきてしまった釣書が、膝の上で虚しく輝いている。装飾として貼られた金箔だ。ニナは視界にそれを入れるのも嫌で、更に視線を横に逸らす。
「──それは……」
マリユスは目敏くもそれを見つけた。分かりやすく持っているのだから当然なのだが、ニナはどうしていいか分からない。迷っている内にマリユスはニナからその釣書を奪い取った。
「あっ、おやめ下さい!」
ニナの制止も振り切り、マリユスはそれを開いた。そこにはバルリエ子爵家の次男の情報が書かれている。誰がどう見ても、見合いの為の釣書だった。端には、来週の見合いの日付まで書かれていた。
「……俺の求婚は断って、見合いか」
「マリユス様っ」
「いや、悪かった。俺が一方的に口説いていただけだもんな」
マリユスは切なげな目をニナに向け、立ち上がった。ニナはマリユスの背中から目が離せない。
「──今日はもう寝ろ。また今度、手合わせしてくれると嬉しい」
言うか早いか、マリユスは鍛錬場から出て行った。ニナは一人、無音の鍛錬場に取り残される。どうして良いか分からなかった。ただ、男爵令嬢として果たすべき役割があるということだけは確かだった。
「──ニナ嬢、貴女はとても美しいですな。本当に、肖像画の通りだ」
バルリエ子爵の次男が、嬉しそうに微笑む。確かに今日のニナは、とても美しかった。ワンショルダーの赤いドレスは大人っぽく、腰の薔薇を模した大きなコサージュが印象的だ。同色の赤いレースのグローブが肘までの肌を覆うのもいじらしい。鍛えられた細身の身体は、妖艶なシルエットの赤いドレスを着ても下品になることはなく、むしろニナの魅力を引き出していた。しかしペチコートはドレスで見えないがズボンになっていて、腰に飾られた大輪の薔薇のコサージュの裏側には短剣を仕込むポケットまであることは、きっとこの場ではニナ以外の誰も知らないだろう。会場となっているバルリエ子爵家の庭園には様々な花が咲き誇っており、春の訪れを感じさせている。
「ありがとうございます」
ニナは微笑みを浮かべて返した。バルリエ子爵と子爵夫人も満足げに笑っている。ニナの父親であるベリル男爵は、美しい娘に対し誇らしげだ。ニナだけが、心をどこかに置いてきてしまったような気持ちだった。
「──まぁ、息子ったら、すっかりニナちゃんの美貌に惚けてしまって……本当に素敵なお嬢様ですわ」
「いえいえ。御子息も、お噂より凛々しいお姿で──ニナには勿体ないくらいです」
親達の会話もニナの耳には入らない。ただ定められた運命というものはあるのだと、一人現実と向き合うので精一杯だ。できるのなら少しでも早く終わらせて、シャリエ伯爵邸に帰りたいと、それだけを思っていた。
「──突然お伺いし、申し訳ない」
めでたい見合いの席に、突然第三者の声が乱入した。ニナにとっては聞き慣れた声に、幻聴かと疑うが、どうやらそうではないようだった。
「どなたですかな?」
最初に反応したのはベロム男爵だった。悠々と歩いてくる姿は、貴公子然として美しい。ニナはどうしていいか分からず、ただその姿を見つめている。
「──ベロム男爵、大変お久しぶりでございます。バルリエ子爵殿、突然お伺いし、誠に申し訳ございません。……シャリエ伯爵が次男、マリユスでございます」
男爵も子爵も、慌てて椅子から立ち上がり頭を下げる。ニナだけは椅子に座ったまま、一切の身動きができずにいた。
「ニナ嬢、俺の求婚を保留にしたまま他家と見合いをするなど、どういうことだ?」
「なっ──」
「ニナ、どういうことだ!?」
息を飲んだニナに、焦ったベロム男爵が詰め寄る。バルリエ子爵家の面々は、突然現れた格上の家格の子息に顔を青くしていた。
「──話の通り、俺はニナ嬢を好きだ。今求婚をしているのだが、男爵の許可は頂けるだろうか。……父上は承知済みだ」
マリユスは当然のように言い、ニナの前に片膝を付いた。手近にある適当な野草を一輪摘む。
「ニナ。このような場で言うのは卑怯だろうが──俺はニナでないと駄目だ。どうか、求婚を受け入れて欲しい。シャリエ伯爵家にずっと居てくれ。……頼む」
マリユスの言葉は飾り気がなく素直で、ニナの心を癒した。白い花は野に咲いているものと同じそれで、ニナを安心させる。
「……分かりました。その申し出──お受け致します」
ニナは心からの微笑みを浮かべた。マリユスは咄嗟に頬を染める。ニナも照れ臭くて視線を逸らした。
「そのドレスを着てくれているということは──逃げる準備はできているということかな?」
悪戯に笑った、そのドレスを贈った張本人であるマリユスに、ニナは恥ずかしく思いつつも笑い返す。掴んだニナの手を引き、マリユスは走り出した。ニナも当然のようにその速さに付いていく。
「なんだ、このくらいの速さは余裕か」
「当然です。──マリユス様ならお分かりでしょう?」
逃げ出しているにも関わらず、ニナの心はとても軽かった。何より、シャリエ伯爵邸に居て欲しいと言ってくれたマリユスの温かさが心に沁みた。ここしばらく重たかった気持ちも、一気に軽くなる。男爵邸を出て馬に乗る。当然のように二人乗りで、ニナはマリユスの腕の中にいた。軽快な馬の足音が響くにつれ、子爵邸が遠くなっていく。
「──そうだな。アリアンヌが一番で構わない。俺の側にいて欲しい」
「勿論です。……マリユス様、私も──愛しています。どうぞお好きにお連れくださいっ!」
ニナの微笑みには、マリユスへの愛情が込められている。マリユスは顔を赤くして、馬の速度を上げた。
「早く帰ろう。──伯爵家へ」
「はい。ありがとうございます」
アリアンヌを一番に思う気持ちに変わりはないが、マリユスがニナを想う気持ちは信じることができた。これからもずっと側に居られることを嬉しく思う。その相手が、アリアンヌなのかナタリーなのか、マリユスなのか──ニナ本人ですら分からないままだったが、その気持ちはとても温かく幸せだった。