エピローグ1
ツェツィーリエが自室に軟禁されている間に、社交シーズンの終わりを告げる王城の夜会は終わっていた。ツェツィーリエを担いでいた貴族達は、ラインハルトとリヒャルト達によって悪事を暴かれた。こうなってしまえば、ツェツィーリエを訪ねてくる人もいない。することもなく、何年かぶりに刺繍糸と布を用意してもらい、手慰みに針を刺していた。
それまでの雑音がなくなれば、濁っていた思考もすっきりとして、残ったのは単純な虚しさだ。最後にアリアンヌにかけた呪いはどうなっただろうかと、最近のツェツィーリエはそればかりを考えていた。
「──ツェツィ、貴女は相変わらず愚かだな」
久しぶりの来訪者は、ツェツィーリエの顔を見て眉を顰めた。ツェツィーリエは予想外の人物に驚き、刺繍針を落としてしまう。ツェツィと愛称で呼ぶのは、今も昔もただ一人だけだ。
「フェリシアン様……」
ラインハルトとリヒャルトの父親であり、先代の国王でもあるフェリシアンは、ツェツィーリエにとってはただ一人の夫だ。フェリシアンはツェツィーリエの側に歩み寄ると、落ちた刺繍針を拾い、生地を取り上げてテーブルへと置いた。
「愛していると言わなければ、愛などないと同じだ。相手が嫌がることをすれば、離れていく。……当然のことが何故分からない」
吐き捨てるように言うフェリシアンを、ツェツィーリエは縋るような瞳で見上げた。ツェツィーリエは、誰かの特別な一人になりたかった。その感情は、最初はフェリシアンに、そして我が子であったリヒャルトに向けられた。リヒャルトが大切なものを全て失えば、きっと母であるツェツィーリエの元へ戻ってくると──リヒャルトに翼を授けたツェツィーリエ自身が、その翼を捥いでしまいたかったのだ。
「あの子は……レティシアの娘は、どうしているの?」
「リヒャルトの恋人なら、君の呪いは解けたようだよ。──良かったね、ツェツィ」
優しい口調に反して、フェリシアンの表情は全くと言って良いほど動かない。
「──そう。あの娘は、それでもリヒャルトを選んだのね」
ツェツィーリエはほうと溜息を吐いた。ツェツィーリエの憧れたレティシアの娘であるアリアンヌは、記憶を失くしてもリヒャルトを愛したのだ。リヒャルトを孤独にしたくて仕組んだ呪いだった筈なのに、アリアンヌがリヒャルトから離れようとしなかったことが嬉しかった。
「ツェツィ、君自身が手を出した。今回ばかりは私も庇い切れないよ」
ツェツィーリエが貴族達に担がれていた頃は、行動を起こしたのも貴族達だった。だからこそラインハルトはツェツィーリエを裁けなかったのだが、今回は呪いという公表できない方法とはいえ、自らの手を汚している。
「ええ、分かっておりますわ」
ツェツィーリエはフェリシアンに頷いた。フェリシアンは深く嘆息する。
「──だから、君は明日にはここを出て、私と共に離宮に行こう。カトリーヌも君を待っている」
ツェツィーリエははっと顔を上げた。
「ラインハルトとリヒャルトからの命令だ。自分の問題は自分で解決しろと。離宮から出ない範囲で、君の自由は保証される。……私はもうずっと、君と向き合わないでいたね。ツェツィ、君を狂わせたのは私の咎でもある。随分遠回りしてしまったが、カトリーヌと三人で、もう一度やり直そう」
フェリシアンの顔には、後悔がありありと浮かんでいた。それでもフェリシアンは、一度顔を伏せると、ツェツィーリエに向けて微笑みを作り、手を差し伸べた。ツェツィーリエは差し伸べられた手に自らの手を重ねる。どこか悲しそうに、しかしぎこちなく微笑んだツェツィーリエに、フェリシアンは優しく微笑み返した。それはまるで、初めて出会った日のようだった。
「──シャリエ伯爵殿」
リヒャルトは、王城の通路でレイモンを呼び止めた。レイモンの仕事部屋の近くだ。王城の一般区画で、貴族や官吏の職場として機能している場所である。社交シーズンが終わり、議会も閉会した今、行き交う人の数は減っていた。
「リヒャルト殿は、またこのような所で……」
レイモンは苦笑した。相変わらず目立っているリヒャルトを、前回と同じように仕事部屋の会議用の個室へと迎える。
「ありがとうございます。──明日から領地に戻られるとお聞きして、今日しかないと思いまして」
「いや、構わないよ。それで、どうなさいましたか?」
リヒャルトは僅かの間躊躇いを見せるが、気を取り直したように小脇に抱えていた荷物をテーブルに乗せた。
「こちらを、伯爵殿へと思いまして。──王太后の私室で見つかった物ですが、彼女の行く離宮へは私物の持ち込みを禁じております。父とラインハルトに相談したところ、貴方にお譲りするのが適切だということになりました」
レイモンは包んでいる布を開き、額に入った絵を見て息を飲んだ。そこにあったのは、美しい女性の肖像画だった。
「レティシア……」
その絵には、レイモンの妻レティシアの生前の姿が、精緻に描かれていた。名のある画家による作品のようだ。劣化していたのを修復したのか、描かれたばかりのように綺麗な絵だった。柔らかく微笑む表情は、レイモンが心から愛した表情だ。
「──やはり、奥様でしたか。王太后の部屋の隅に、隠すように置かれていたそうです。伯爵殿にお渡しすると決まって、修復師に依頼して傷んでいたところを復元してもらいました。……お持ちになってください」
じっと絵を見つめていたレイモンは、リヒャルトの言葉に顔を上げた。
「レティシアと王太后様は、面識がありました。しかし、この絵は……」
肖像画を描かせ、持ち続ける程にツェツィーリエはレティシアに特別な感情を抱いていたのだろうかと、レイモンは首を傾げる。しかし目の前に置かれた絵は、レイモンの心を捕らえて離さなかった。
「父曰く、……憧れだったようですよ」
眉間に皺を寄せたリヒャルトは、まだ今回の件でツェツィーリエを許せないでいるようだ。レイモンもまた、アリアンヌを狙ったことへの怒りは消えていない。しかし、肖像画の中のレティシアは、そんなことに囚われるなと言わんばかりの暖かい表情でレイモンを見つめている。
「──ありがたく頂きます」
レイモンは肖像画を大事そうな手付きで布に包み直した。リヒャルトはそれを確認して口を開く。
「それと、この手紙をアリアンヌ嬢へお渡し頂けますでしょうか。オフシーズンに何度か伯爵領へお伺いする旨が書かれています」
リヒャルトは、シンプルな封筒の手紙をレイモンに手渡した。寂しい思いをさせないようにと、レイモンに聞こえないほどに小さな声で呟く。
「ああ、確かに預かりました。……娘をよろしくお願いします」
レイモンはリヒャルトに深く頭を下げた。リヒャルトは驚きに目を見張るが、認められたようで嬉しかった。同時に、強い決意がエメラルドグリーンの瞳に滲む。
「──はい。必ず幸せにします」
レイモンはリヒャルトの瞳と言葉に、若かりし頃の自らの姿を重ねた。迷いなく伸ばされた背筋に、頼もしさを感じる。これまでの二人を思い出し、アリアンヌは良い男を選んだと、レイモンは感慨深く頷いた。