はやる心
アリアンヌは庭の四阿にいた。秋薔薇の花は今はなく、庭に咲いている花の、春の始めの柔らかな甘い香りが風に乗って届く。領地への出発を明日に控えているアリアンヌは、春らしいドレスに身を包みながらも、どこか落ち着かない気持ちでいた。
ナタリーは持ってきた紅茶を淹れる。アリアンヌは一口飲むと、事務所から持ってきた相談記録を開いた。真紅の布張りの表紙はアリアンヌの手に良く馴染んでいる。ナタリーにさえ見せたことのないノートには、アリアンヌが受けた相談が、主観を混ぜて書いてある。最初のページには、初めての相談について書いてあった。
「初めての相談について書いてあるわ」
「まあ、懐かしいですね」
ナタリーが微笑んで相槌を打つ。最初の相談は、領地の孤児院の名物作りだった。子供達でも作れて、祭りで売れるようにと、試行錯誤してカラス麦のクッキーを作ったのだ。あの時は、子供達の笑顔がとても嬉しかった。
「本当ね。──まあ、これはお兄様のお友達の話だわ」
アリアンヌは相談記録を読みながら、ナタリーとの会話を楽しんでいた。もやもやとする心も少しずつ晴れてくる。相談屋として事務所を構えたのは前の社交シーズンからで、それからは探偵や街の人との出会いや交流も増えていった。
「──え?」
アリアンヌはノートの頁を捲った。そこに書いてあったのは、朝の市場で魚を盗っていく生き物を退治してほしいという依頼だ。今年の社交シーズンに入り、王都に出てきた頃だ。だが、子猫を捕獲してしばらくして、家で飼っているあたりから、眩暈がして続きを読むのが覚束ない。テーブルに手をつき、倒れないように身体を支えた。
「これって……」
「アリアンヌ様、どうなさいました?」
ナタリーに声をかけられるも、アリアンヌは驚きに目を見張ったまま動きを止めた。ここに書いてあるのは、アンナとしての記録だ。伯爵令嬢としてでなくとも、リヒャルトと関わっていたことに、アリアンヌは今更になって気付いた。
「──いいえ、大丈夫よ」
アリアンヌはナタリーに止められないよう、微笑みを浮かべ返事をする。逸る心を宥めながらも、次のページを捲った。
そこからは全く読めなかった。次々に頁を捲るも、どの内容も全くと言って良いほど頭に入ってこない。アリアンヌは眩暈も痛みも無視して、涙が溢れるのも構わず、ついに文字の書いてある最後の頁まで辿り着いた。そこには短い文章が書かれていることを、アリアンヌは知っていた。言葉にならない心の代わりに、この記録を読んで大切なことを忘れないようにと書いた言葉は、ただの署名だ。
──アンナから、アリアンヌへ──
アリアンヌは立ち上がり、相談記録をナタリーに手渡すと、そのままの勢いで庭の裏口から外へと飛び出した。
「──アリアンヌ様、お待ちください!」
焦ったナタリーの声が追いかけてくる。門番が驚いているが、今のアリアンヌにはそれすら気にならなかった。ただ、夜会の日のリヒャルトの言葉が頭の中で響いている。
──私は貴女に何もしてあげられなかったけれど、貴女は私にたくさんのものをくれた──
そんな筈がない。目覚めたアリアンヌを心配して抱き締める腕は優しかった。アンナとしての時間は、出会ってからリヒャルトのことばかりだ。
──明日になったら、私のことは忘れて構わないから──
忘れてしまった後だけでもたくさんの想いをくれた人を、簡単に忘れられる訳がない。記憶があるから愛しているのではないと言ったリヒャルトは、アリアンヌが辛い思いをしないようにその気持ちを諦めようとしているのだろう。
アリアンヌは、急いでも思うように動かない足に苛立った。ドレスの裾が絡んで鬱陶しい。ロージェル公爵邸まではまだもう少し距離がある。ほとんど歩く程の速さになりながらも、アリアンヌは前へと進んだ。
そのとき、目の前を通り過ぎた小さな馬車が止まり、何処かの邸の使用人の女性が駆け降りてきた。
「……アリアンヌ様?ど……どうなさったのです!?」
「エリス!?」
アリアンヌをよく知っているエリスを、アリアンヌは名前以外ほとんど覚えていなかった。忘れている記憶から関係を予想し、アリアンヌは荒くなった呼吸で口を開く。
「公爵家に、行きたい……のだけれど、急いで出てきてしまって──」
エリスは驚きに目を見張ったようだった。わたわたと忙しなく手を動かし、少し躊躇した後、アリアンヌの腕を引く。
「乗ってください……っ!」
「でも──」
「私はっ、大丈夫……ですからっ。馬車は使用人のお使い用なので、裏口から入ってください……!」
アリアンヌはほとんどエリスに押し込まれるようにして馬車に乗り込んだ。
「ありがとう、……ごめんなさい」
アリアンヌは内心でエリスとの間にあったことを忘れてしまっていることも含めて謝罪した。しかし、エリスはぎこちなく微笑むと、リヒャルト様と仲直りできると良いですねと言って、手を振ったのだった。