二度目の恋3
ダンスを終え大広間の端に戻ると、リヒャルトは給仕から受け取った果実水をアリアンヌに差し出した。アリアンヌはそれを受け取り、火照った頬を冷ますように口にする。
「ありがとうございます」
アリアンヌにとっては久しぶりのダンスだった。きっと倒れた夜会以来の──と、そこで考えるのを止める。最近のアリアンヌは、記憶を深追いするのを自制するようになっていた。これ以上追いかけたら辛くなる、そのボーダーラインが分かってしまえばあまり怖くない。
「──こんにちは、ロージェル公爵殿」
声を掛けて来たのは、ある一人の貴族の男性だった。時候の挨拶から始まり、会話は外交問題にまで及ぶ。リヒャルトもまた付き合いのある相手らしく、アリアンヌを離さないよう意識しながらも会話を続けていた。
「いや、ネーレウス王国訪問の話はお聞きしました。ロージェル公爵殿の外交手腕と、夜会での振る舞い。アリアンヌ嬢も、中々の評判でしたよ」
男はアリアンヌにも微笑みを向けた。アリアンヌは微笑みで返しながらも、ネーレウス王国という言葉に意識を引っ張られた。男の言葉のところどころで、耳鳴りと目眩がする。そういえば、自室で読んでいた外国文学も、ネーレウス王国のものだった。確かクローリス王国の王都ナパイアとは違って色とりどりの屋根を持つ建物が並ぶ町 だった──そこまで考えると、刺すような痛みが頭に走る。アリアンヌは笑みを貼り付け、リヒャルトの背に少し隠れるようにして気付かれないよう振る舞った。
「それは、ありがとうございます。──申し訳ございません、少し酔ってしまったようです。外の風に当たって来ますので、また改めてお話しましょう」
リヒャルトは卒なく会話を切り上げて、アリアンヌの手を引いた。アリアンヌの手からグラスを取り上げると、給仕に渡して下げさせる。周囲の声がぐるぐると回って足取りが覚束ないアリアンヌを、リヒャルトの手が導いてくれた。耳鳴りも眩暈もなくなり顔を上げれば、そこは大広間から繋がっているテラスだった。二人きりの空間に、アリアンヌは思わず安堵の笑みを浮かべる。
「──アルト様、申し訳ございません」
アリアンヌは目線を下げて、リヒャルトに謝罪した。
「何故アリアンヌが謝るんだ?」
「私のせいで、お話を途中で止めさせてしまいましたわ」
「そんなこと気にしなくて良い。すまなかった、辛かっただろう?」
アリアンヌの頭を、リヒャルトはポンポンとあやすように撫でた。整えた髪を崩さないよう気遣いつつの仕草に、アリアンヌは兄達を思い出す。され慣れた事のはずなのに、アリアンヌの心臓は何故か高鳴っていた。リヒャルトの手が蝶の形の髪飾りに触れ、すぐに離された。
「どうして──」
アリアンヌは思わず口を開いた。
「どうしてアルト様は、私に優しくするのですか。私は、貴方を忘れているのでしょう?」
リヒャルトはアリアンヌの問いかけに目を見張った。エメラルドグリーンの瞳が、アリアンヌの瞳を覗いている。
「──では、アリアンヌは、何故今日私と夜会に参加しようと思ったんだ?」
「それは──」
呪いがリヒャルトを苦しめるためのものだと思ったからだ。孤独にすることが目的ならば、決して一人にさせたくないと思ったから。
「……それは?」
探るようなリヒャルトの視線に、アリアンヌは伏せてしまいそうになる目をぐっと上げる。俯いてはいけないと思った。
「呪いなんて手段を使う人の、思い通りになりたくなかったからです。アルト様を私から遠ざけたいと思っての呪いなら、この夜会では側にいようと思いましたの。──今の私は荷物にしかなりませんが、それでもただ負けたくありませんわ」
アリアンヌにとってそれは、虚勢もあるが偽りのない本音だった。知らず瞳に力が宿る。リヒャルトはアリアンヌの言葉に、温かく優しく微笑んだ。
「私も同じだよ、アリアンヌ。私は、貴女の記憶があるから貴女を愛する訳ではない。私を忘れていても、貴女は貴女のままだ。今日は本当にありがとう、貴女のその気持ちがとても嬉しかった」
向き合う二人の間を、春の始めの少し暖かい風が通り抜けた。リヒャルトは伸ばした右手でアリアンヌの頬を慈しむように撫でる。寂しさを滲ませた微笑みに、アリアンヌの胸が騒ついた。
「──無理に思い出そうとしなくて良いよ。この夜会が終われば、貴女は領地に帰るんだろう。私は貴女に何もしてあげられなかったけれど、貴女は私にたくさんのものをくれた。だから思い詰めないで。明日になったら、私のことは忘れて構わないから」
「そんな──」
息を飲むアリアンヌに、リヒャルトはそれでも微笑みを崩さなかった。アリアンヌは何かを言わなければいけないと思うのに、痛む胸に言葉が出てこない。リヒャルトは、俯きかけたアリアンヌの右手を取った。
「久しぶりの社交だろう?あまり長居するといけない。……今日はもう一曲踊って帰ろうか」
躊躇するアリアンヌを、リヒャルトは自然な仕草で大広間の中へと導いていく。ちょうど曲が変わって、緩やかなワルツが流れ始めた。曲が始まってしまえば、アリアンヌはリヒャルトのエスコートに身体を預けるしかない。言葉にできない何かが涙となって溢れそうになるのを、アリアンヌは微笑みで堪えていた。