リヒャルトの優しさ
「リヒャルト様、恐れながら申し上げます。……リヒャルト様は、アリアンヌ様をどうなさりたいのですか?」
モーリスは、これまで聞けずにいたことを口に出した。ロージェル公爵邸の執務室では、リヒャルトが机に向かい、古い本の頁をめくっていた。扉の横にはティモテがいるが、珍しくティモテは無言のままだ。
「どう、とは?」
「今回の事件以降、リヒャルト様はご自身からアリアンヌ様と関わりを持とうとなさっておりません。王城の夜会も、アリアンヌ様から言われなければ、お一人で参加なさるつもりでしたでしょう」
モーリスは、リヒャルトの真意を量るように、真っ直ぐに主人であるリヒャルトを見た。
「私には、お好きでいらっしゃるのに、自ら距離を置こうとするリヒャルト様が分かりません」
はっきりと言ったモーリスに、リヒャルトは顔を上げた。リヒャルトの瞳にはモーリスが映っているようで、その実モーリスを見てはいない。
「……そうか。私はただ、彼女に幸せでいてもらいたいだけだよ。たとえ──私がそこにいなくても、だ」
リヒャルトは嘆息すると、手元にある本をモーリスに見せた。
「これが、アリアンヌに使われた呪いだ。『最愛の恋人を忘れ、思い出すのを阻害する』効果があるらしい。……趣味の悪い呪いだな」
最愛だと思われていたことは嬉しかったが──と呟いたリヒャルトは、眉間に皺を寄せる。モーリスがその本を見ると、数頁に渡って、破り取られているのがわかった。
「この、破られている頁は……?」
「ああ、そこに呪いを解く方法が書かれていた筈なんだ。──もう読めないが」
リヒャルトは難しい表情のまま、その本を引き寄せた。
「この本にしか、この呪いについては書かれていなかった。ラインハルトに頼んで無理に借りてきたが、解き方が分からなければ意味がない。この呪いは彼女ではなく、私を苦しめる為の呪いなんだ、モーリス。私の母親は、余程私を孤独にしたいらしいね」
リヒャルトは自嘲し、本を閉じた。モーリスはそんなリヒャルトを見ていられずに目を伏せる。
「……リヒャルト様は、アリアンヌ様と共に幸せになりたいとはお思いにならないのですか?」
モーリスの縋るような最後の問いかけに、リヒャルトは律儀にも答えた。
「──ああ、なりたいさ。許されるなら、今だって側にいて抱き締めていられたらどれだけ幸せかと……私だって、そんな夢を見る愚かな男の一人だよ。だが、それは私の我儘だ。彼女を傷付ける人間は許せない。それが、たとえリヒャルト・ロージェルであっても、だ」
リヒャルトは言い残して執務室から出て行った。このまま自室で眠るのだろう。先日、これまでのラインハルトの暗殺未遂の犯人や、アリアンヌの呪いに関わるフーリエ伯爵らの摘発が済み、ツェツィーリエも捕らえられたことで、リヒャルトの生活はいくらか平常に戻ってきている。家に帰って眠るという行為を、当然に行うようになっていた。しかしそれにもモーリスは、リヒャルトが内心では幸せな未来を諦めているのではないかと不安になる。
リヒャルトの足音が遠ざかり、執務室は静寂に包まれた。深く聞き過ぎたと後悔して嘆息するモーリスに、それまで黙っていたティモテが声をかけた。
「何、モーリスさんってば、本当に分かってなかったんですか?」
ティモテの軽い言葉に、モーリスへ眉間に皺を寄せる。モーリスは、飄々としたティモテの態度が気に食わなかった。
「どういう意味だ、ティモテ」
「そのままの意味ですよ。リヒャルト様は、自分が辛いとか悲しいとか、考えないんだ。あの人は昔からずっとそうですよ。自己犠牲かどうかすら考える前に、真っ先に自分を犠牲にするのさ」
「そうか……」
ティモテが吐き捨てるように言った言葉は、モーリスの傷を確実に抉った。顔を青くするモーリスに、ティモテは軽薄にも見える笑顔を浮かべる。
「だから、リヒャルト様達の優しさは残酷なんです。そんな優しさを受け取る側の気持ちなんて、きっと知らないんだろうな──」
ティモテも執務室を出て行った。最後に残されたモーリスは、リヒャルトとティモテの言葉を反芻した。それでも、リヒャルトとアリアンヌが二人仲良く幸せでいる、温かいロージェル公爵家の未来を、夢見ないではいられなかった。
王城の夜会の日は、あっという間にやってきた。アリアンヌは前日にリヒャルトから届けられたドレスを、ナタリーとニナによって着付けられる。久しぶりの華やかなドレスに、知らず気持ちが上向いた。昨夜ロージェル公爵家の使用人がリヒャルトに代わって届けに来たという贈り物のドレスは、若葉色の春らしいものだった。腰に巻かれた碧いシンプルなリボンが、全体の印象を引き締めている。ふわりと広がるスカート部分には少しずつ異なる色のシフォンが重ねられており、薄いピンクや白や水色の小さな薔薇の花が、ドレープに合わせていくつもあしられていた。胸元にも薔薇のコサージュを着けると、まるで華やかな薔薇の庭園にいるようだ。
「可愛いドレス……」
アリアンヌは鏡の中に映るドレスをじっと見つめた。ナタリーが微笑んで装飾品を持ってくる。
「今日はこちらをお着けしましょう」
ナタリーによって次々と飾られていくエメラルドとサファイアに、アリアンヌの目は見開かれた。
大粒のサファイアのネックレスにはエメラルドがチェーンの部分に配置されており、揃いのデザインのイヤリングと共に存在を主張している。髪飾りは蝶の形で、ステンドグラスを真似た意匠だった。中心から外側に向けて、エメラルドグリーンからサファイアへと色を重ねて、グラデーションになるように作られ、表面の繊細なカットでキラキラと輝いていた。
「──これは?」
あまりに美しく、見るからに高価なそれに、アリアンヌはナタリーに問いかける。ナタリーはどこか寂しそうに微笑んだ。
「こちらは、以前頂いたものですわ」
誰に、とは言わないナタリーに、アリアンヌは胸が締め付けられるようだった。