アリアンヌの決断
「──そうよ、呪いなのよ」
アリアンヌは痛みに備えたが、その言葉自体には問題がないのか、さらりと口にできた。フェリシテは不思議そうに首を傾げる。
「……呪いって、私が言っておいてこんなこと言うのも変だけれど、それこそ物語の中の話よ。私も物語で書いたことはあるけれど、現実には存在しないわ」
「だからこそ、アルト様が私に会わないようにしていて、お父様が過保護になっているのだとしたら?」
話しながらもアリアンヌはその考えを少しずつ確信に変えていった。思い出そうとして頭痛がするのなら理解できるが、リヒャルトとの過去に関する情報を、目眩と耳鳴りで遮断されているのだ。そんなことが、自然に起きる方がおかしい。フェリシテはアリアンヌがアルトと呼ぶのがリヒャルトであると、少しして理解する。
「お医者様は何も問題ないと仰っていたわ。でも、アルト様のことになると、痛みも目眩も耳鳴りも続いているの。それも、呪いだからだとしたら?」
フェリシテは少しずつ表情を固くしていく。
「待ってアリアンヌ。それじゃ──」
「そう、私は呪われていることになるわね」
「何をはっきり言っているの!……呪った相手がいるってことよ!?」
フェリシテは顔を青くして声を荒げた。アリアンヌは頷き、すっかり冷めた紅茶を口にする。部屋の隅に控えているナタリーとニナは、既に知っていた情報だからか、あまり動揺していないようだった。アリアンヌは苦笑して二人に目を向ける。
「……ナタリーとニナは、知っていたのね。お父様に口止めをされていたのかしら、それともアルト様?」
肩を震わせて俯いたニナの代わりに、ナタリーがアリアンヌの疑問に答えて謝罪した。
「その両方でございます。申し訳ございません」
「貴女達は何も悪くないわ。そんな顔しないで、ニナ。私は大丈夫よ」
アリアンヌは微笑んで二人を許すと、呆気にとられているフェリシテに向き直った。
「え、──本当に?」
「でしょうね。だけど、多分機密でしょうから内緒よ、フェリシテ」
「当たり前じゃない!呪いが実在するなんてことになったら、大変よ」
「……だけどこの呪い、私は困らないわ」
目を伏せぽつりと呟いたアリアンヌに、フェリシテは怪訝な表情をした。ナタリーが自然な所作で二杯目の紅茶を注ぐ。華やかな香りに、二人は肩の力を抜いた。
「アリアンヌは困らないって、どういうこと?」
「だって、私はアルト様に会わずに、彼を思い出そうとしなければ良いのよ」
リヒャルトを忘れて関わりを絶ってしまえば、アリアンヌには痛みも何もない。呪いなどかけられていないも同然だ。
「この呪いは、アルト様を苦しませる為のもの……なのかしら?」
アリアンヌは口にして、自らのその考えに驚いた。アリアンヌが忘れることで、リヒャルトが悲しむと思うほどのことがあったのか。アリアンヌが忘れていることは何なのか、これまでのことが気になって仕方がなかった。
「アリアンヌ。私、今日はもう帰るわね」
「──フェリシテ?」
フェリシテは真剣な瞳をアリアンヌに向ける。アリアンヌもまた、フェリシテを真っ直ぐに見つめ返した。
「貴女は、きっと今のままでは後悔するわ。大人しくしている時点で、らしくないのよ。私は帰るから、好きにやりなさい。……ね?」
フェリシテは最後に笑って立ち上がると、すぐに部屋を出て行ってしまった。残されたアリアンヌは、紅茶のカップをじっと見下ろす。その赤褐色の液体に、何故か頭に小さな痛みが走った。
その日の夜も、リヒャルトはシャリエ伯爵邸を訪れた。公にはツェツィーリエは体調を崩していることになっている。王城では口に出し辛い内容も多かった。リヒャルトは警備としてティモテを連れてくることで情報の秘匿を図って、レイモンとの密会を重ねている。
いつものように会話を終え、レイモンが帰ろうとしたリヒャルトを見送る。エントランスにいた二人の元に、部屋にいるよう厳命したはずのアリアンヌが駆け寄ってきた。
「──アリアンヌ、部屋にいるよう言った筈だが」
淑女とは言い難い、まるで子供のように走り寄ってきたアリアンヌに、レイモンは眉間の皺を寄せた。リヒャルトは驚きに目を見開いている。
「申し訳ございません、お父様。ですが、あの……来週の、王城の夜会についてですが──」
社交シーズンの終わりを告げる、王城の夜会──それは、梅の花が咲く頃に行われる。既に来週に迫っていたことにアリアンヌが気付いたのは、フェリシテが帰ってすぐのことだった。
「それなら、アリアンヌは欠席させるつもりだが」
「私を、公爵様と一緒に出席させてくださいませ」
アリアンヌはレイモンを真っ直ぐに見据えて言った。レイモンは眉間の皺をより深くする。リヒャルトが息を飲む音が聞こえた。
「──だが、貴女が私と一緒に出席したら……きっと辛い思いをするよ」
リヒャルトはぎこちなく微笑みを浮かべながら、アリアンヌに言った。その微笑みが悲しそうに見えるのは、アリアンヌの考え過ぎだろうか。アリアンヌはリヒャルトに歩み寄ると、エメラルドグリーンの瞳をじっと見上げた。
「構いません。……倒れないように頑張りますので、どうかお願いします」
アリアンヌの瞳には、何者かへの闘志が滲んでいる。その澄んだ湖面のような碧い瞳に吸い込まれそうな錯覚に、リヒャルトは何も言えなくなった。少しして、リヒャルトの代わりに、レイモンが溜息混じりに口を開く。
「倒れないように頑張るのではなく、倒れる前に帰ることが条件だ。……リヒャルト殿、それで良いかね」
アリアンヌはレイモンの言葉に、ぱっと表情を輝かせた。
「ありがとうございます、お父様!……アルト様、当日はよろしくお願いしますわ」
アリアンヌは、来たときの勢いのまま踵を返すと、ぱたぱたと部屋へと戻っていった。リヒャルトとレイモンは、突然のアリアンヌの行動に首を傾げつつ、夜会の当日までにいくつかの問題を絶対に片付けようと決めたのだった。