アルトとリヒャルト
リヒャルトはアリアンヌの瞳に浮かぶ色にたじろぎ、手を離して椅子に座り直した。アリアンヌは、突然の頭痛とすぐに引いていく痛みに首を傾げつつも、リヒャルトの様子を窺っている。
「私のことは知っているね?」
リヒャルトが意識してゆっくりと問い掛けると、アリアンヌは小さく頷いた。
「はい。リヒャルト・ロージェル公爵様……のことは、存じております」
アリアンヌは話しながら、また顔を歪めた。
「──名を呼ぶと痛むか?どんな風に?」
「ええと……」
「遠慮は不要だよ、アリアンヌ。素直に言ってくれて構わないから」
リヒャルトは、布団の上に投げ出されたままのアリアンヌの手に、できるだけ優しく自らの手を重ねる。アリアンヌは小さく肩を震わせたが、今度は拒絶しなかった。
「はい。……頭に、内側から刺されているような痛みがします」
「公爵、なら平気か?」
「公爵様、ですか」
アリアンヌは声に出して、驚きに目を見張った。
「痛くないんだな?」
「はい、何ともありませんわ」
アリアンヌは不思議そうに瞬きをする。リヒャルトは浮かべていた微笑みを寂しさで曇らせた。それでも一縷の望みを込めて、リヒャルトはまたアリアンヌに問いかけた。
「──では、『アルト』は?」
「あの……どうして、アルト様、なのでしょうか?」
アリアンヌは突然言われた名前に、理由が分からないでいる。リヒャルトは嬉しそうにアリアンヌの手を握った。
「痛むか?」
「いいえ、何ともありませんが……」
「なら、その名で呼んで欲しい」
リヒャルトは肩の力を抜いて、自然に微笑んだ。アリアンヌはその微笑みに僅かに頬を染めながら、思い詰めたようにリヒャルトに聞く。
「あの、アルト様。……私と貴方は、どのような関係だったのでしょう?」
「それは……」
リヒャルトは言い淀んで目を逸らした。名前を呼んだだけでも苦しそうにするアリアンヌに、これ以上辛い思いをさせたくない。
「お願いします。教えてください」
アリアンヌはリヒャルトの手を握り返した。真摯な瞳に、リヒャルトは意を決して口を開く。
「貴女は、私の婚約者だったよ。夜会にも一緒に行って──」
リヒャルトが説明を始めると、途端にアリアンヌはリヒャルトと繋いでいた手を解き、両手で耳を覆って目を瞑ってしまった。苦しそうに俯く姿に、やはり話すべきべはなかったとリヒャルトは後悔する。話を止めると、アリアンヌの痛みは少しずつ収まっていくようだった。
「すまない。やはり話すべきではなかった。──どうした?」
「──いえ。あの、突然眩暈と耳鳴りが……」
弱々しくもリヒャルトに微笑みを見せるアリアンヌに、リヒャルトはどうしても顔を顰めてしまう。
「教えるのも駄目なのか。──私からアリアンヌを奪う為、ということか……」
アリアンヌには聞こえない程の声でリヒャルトは呟いた。知らず、眉間に皺が寄っていく。
「ごめんなさい、私が我儘を言ったせいですわ。……アルト様がそんなに苦しまないでください」
リヒャルトはアリアンヌの言葉に、自らの手で頬に触れた。表情が強張っているのが分かる。こんな顔では、アリアンヌを悩ませるばかりだろう。リヒャルトは内心で嘆息して立ち上がった。
「辛い思いをさせてすまなかったね。できるだけ私のことは考えずに過ごしてほしい。……貴女が苦しむ姿は、誰も見たくないはずだから」
最後に一度微笑むと、リヒャルトはその場にいたいと思う未練を断ち切るように踵を返し、寝室を出て行った。外にいたニナに便箋を用意してもらうと、立ったまま側にあるティーテーブルでレイモンに手紙を書く。リヒャルトとの過去について触れてはいけないことと、リヒャルトの名前を呼ばせないことを伝える内容だ。それをニナに託して、リヒャルトはシャリエ伯爵邸から王城へと引き返した。
アリアンヌは、ベッドの上で行き場のない手を引き寄せた。リヒャルトが出て行くとき、咄嗟に伸ばしてしまった右手だ。何故自分がそんな行動をしたのか、今のアリアンヌには分からなかった。引き寄せた右手を、胸の前で自らの左手で握り締める。俯いて目を閉じると、思い出すのはリヒャルトが最後に見せた寂しげな微笑みだった。
「──アリアンヌ様、大丈夫ですか?」
ナタリーが気遣わしげに声を掛ける。
「ええ、大丈夫。……果実水をもらえるかしら?」
「ご用意しておりますよ」
ナタリーはグラスに注いだ果実水をアリアンヌに手渡した。適度に冷えた液体が喉を滑り落ちていく。柑橘系の香りが、アリアンヌの気持ちとは裏腹に爽やかだ。
「ねえ、ナタリー。アルト様はどうして、考えるな、なんて仰ったのかしら?」
アリアンヌは、ナタリーに聞くともなしに聞いた。アリアンヌだって、リヒャルトの態度とこの状況から、二人の間に何かがあったことは分かる。ナタリーはアリアンヌの言葉に、僅かに逡巡してから口を開いた。
「それは……アリアンヌ様のことが大切だからだと思います。ですが、リヒャルト様が仰るように、無理はなさらないでくださいませ」
ナタリーは当然のようにリヒャルトの名を口にする。アリアンヌは、それすら許されない今の自分を不思議に思った。