歪んでいく思い
リヒャルトは何度もアリアンヌに呼び掛けるが、返事はなかった。それでも呼吸が安定していることを確認して僅かに安堵する。リヒャルトは、楽しそうに笑うツェツィーリエを睨み付けた。
「貴女はこれを呪いだと言いましたね」
自らを責める感情を抑え、努めて冷静にリヒャルトは話した。ツェツィーリエは笑い声を止め、倒れたアリアンヌのすぐ側の床に片膝を付いたリヒャルトを、立ち上がって見下ろした。
「ええ、それがどうしたのかしら?」
「どのような呪いをかけたのですか」
リヒャルトは呪いの専門家ではない。今の時代には研究者もいない筈だった。それでもお伽話の程度だが、最低限の知識だけはある。対象の生命を奪うには、自身の生命が対価としてあること、それ以外の呪いは解くことができること、呪いを解く引き金は呪いの内容に依存すること。アリアンヌが呼吸をしていて、ツェツィーリエが楽しそうに笑っていられるということは、生命を奪う呪いではないことは分かる。
「お嫁さんの目が覚めれば分かるわ。……ふふ、もう『お嫁さん』ではなくなるのかもしれないわね」
ツェツィーリエは最後にそう言い残すと、扉を開けて部屋から出て行った。近くにいた近衛達も動き、警備が緩んだことが分かる。
「──ウーヴェ、王城に行き、ラインハルトに呪いの痕跡を探すよう伝えてくれ。戻ってきたところであの女を捕らえるように、とも」
警備の隙さえあればすぐ近くにウーヴェがいるだろうと確信を持ち、リヒャルトは誰もいない空間に指示を出した。呼応するようにコツコツと何かを叩く小さな音がして、周囲にあった気配の一つが消える。呪いという方法では罪を問うことはできないと考えているツェツィーリエは、必ず王城に帰るだろう。
「目が覚めれば──か」
そこから分かるのは、アリアンヌにかけられたのは眠り続ける呪いではないということくらいだ。
「毒ではないから、私が飲んでも何もなかったのか」
リヒャルトはぽつりと呟いた。充分に警戒していたからこそ、リヒャルトは責任を感じていた。紅茶に毒が含まれていないことを確認したのは、他でもないリヒャルトだったのだ。腕の中のアリアンヌは、ただ眠っているだけのように見える。穏やかな寝顔からは、とても呪いをかけられているとは思えなかった。
私は、『彼』に愛されたかった。そうすれば、私に価値があると信じられるから。優秀な『彼』はそれから数年で国王になった。サファイアブルーの瞳を持った『彼女』の子供は、元気に成長している。正妃として嫁いで何年も経つのに、子供の一人も成せない私は、意味のない存在だった。それでも『彼』は変わらず、数日おきの夜に私の部屋へやってくる。抱かれる夜も抱かれない夜も、私は縋るように『彼』との時間を過ごした。
「貴女は何かしたいことはあるか?私にできることなら協力しよう」
『彼』はいつも私にそう聞いてきた。私は毎回その質問に首を振る。何をしたら満たされるのかは、私自身が一番知りたかった。私の懐妊が分かったのは、そんな時だ。報告すると、『彼』は私を優しく抱きしめてくれて、お父様はとても喜んでくれた。王城の皆もどこか浮き足立っているようで、嬉しかった。生まれてきたのは私と同じエメラルドグリーンの瞳を持つ男の子だ。美しい第二王子の誕生を、国中が祝ってくれた。
やがて第一王子である『彼女』の子供と会わせると、私の子供はすぐに懐いた。『あにうえ』と舌ったらずな声で呼んでは、後を付いて回っている。『彼女』はそれを微笑ましげに見ながら、私とのお茶の時間を楽しんでいた。
成長するにつれて『彼』に似ていく子供は、とても可愛らしい。その人懐こさや聡明さは、『彼』の子供の頃を見ているようだった。国王となってから忙しくしている『彼』が、確かに私を愛した証のようで、愛しくて愛しくて仕方がない。きっとこの子が大きくなったら、私の生まれた国とこの国を、そして沢山の国の人達を繋ぐ架け橋となってくれるだろう。私はそんな未来が楽しみで、子供に元外交官の家庭教師を付け、社交の場にもよく連れて歩いた。
──私は確かに幸せだった。歯車が狂い出したのはいつからだっただろうか。
忙しさを理由に『彼』が私の元へ来なくなって、『彼女』と会う回数も減っていった。子供はすくすくと育ち、『彼女』の子供と仲良くしている。気付けば私は、嫁いだ先の王城でもまた孤独になろうとしていた。
私の手を離れてパブリックスクールに通うことを決め、自ら学び成長していく子供は、立ち止まったままの私を置いていく。
王太子となり周囲の期待を一身に受ける『彼女』の子供も、立派に成長していた。
今では王太子の母親として『彼女』は社交界の華と呼ばれ、やはり多忙にしているらしい。
「第二王子は正妃である貴女の子供です。王太子となるのに、何の問題がありましょうか」
最初に私にそう言ったのは誰だったか、もう忘れてしまった。その場は笑って流した言葉は、何人もの人に本気で、時には世辞として言われるうち、私の中で花を咲かせていく。
欲しかったものが何なのか、とうの昔に分からなくなっていた。