毒より確かに
「ツェツィーリエ様……ですか?」
「まあ、可愛らしい声。これからよろしくね、お嫁さん」
アリアンヌはツェツィーリエの態度に毒気を抜かれ、おずおずと微笑みを浮かべた。リヒャルトはしかしアリアンヌの前から動こうとはしない。
「貴女が本当にそれだけのために来る筈がないでしょう。何が目的ですか」
「目的なんて、酷い息子だわ。ねぇ、一緒にお茶会をしましょうよ」
「なにを──」
「お友達、まだしばらく来れないと思うわよ?」
リヒャルトとアリアンヌは、揃って身体を固くした。お友達という言葉がマリユスとニナのことを指していることは、アリアンヌにも分かる。アリアンヌは真意を確かめようと、ツェツィーリエに問い掛けた。
「あの、二人はどうしているのでしょうか……?」
ツェツィーリエは、くつくつと喉の奥で笑う。
「何かあるのかもしれないし、何もないかもしれないわね。ふふ、どうかしら。もう一度聞くわね。私と、お茶会をしましょう」
アリアンヌは目を見張った。ツェツィーリエの誘いは、純粋に会話を楽しみたいが為のものではない。リヒャルトがアリアンヌを振り返るが、アリアンヌは落としていた視線をぐっと上げてツェツィーリエの瞳を見た。リヒャルトが引き留めるようにアリアンヌの手を握る。アリアンヌはリヒャルトが口を開くより先に、ツェツィーリエの誘いに応えた。
「──ええ、お誘いありがとうございますわ、ツェツィーリエ様。是非、ご一緒させて頂きます」
アリアンヌとリヒャルトは、庭を抜け、裏口から伯爵邸に入って、しばらく廊下を歩いた先の客室に案内された。リヒャルトはそこがウーヴェの報告にあった警備の厳重な部屋であると分かった。周囲には近衛兵が数人いて、確かに全ての出入口を見張っている。
室内はいくつかの灯りで照らされており、ティーテーブルと椅子だけが置かれている。部屋に入ってすぐにメイドが入って来たが、ティーセットを置いて出ていってしまった。三人きりの空間は緊張を誘うが、ツェツィーリエは気にも留めていない様子だ。
勧められるがままに椅子に座ると、ツェツィーリエは茶葉の入っているポットに湯を注いだ。思わず驚きを顔に出したアリアンヌに、ツェツィーリエは微笑む。
「ふふ、意外かしら?私、紅茶を淹れるのは得意なのよ」
ツェツィーリエは茶葉を数分蒸らすと、三つの白いティーカップに紅茶を注いだ。アリアンヌとリヒャルトの前にそれぞれカップを置き、最後の一つを持ったツェツィーリエが、向かい側の席に座る。
「──どうぞお飲みになって」
アリアンヌは目の前の紅茶を見つめた。リヒャルトから聞いた昔の話が、アリアンヌの頭を過ぎる。リヒャルトが声を出さずにいた理由は、何者かによるラインハルトの暗殺未遂だった。容疑者と言われているのは、今紅茶を淹れたツェツィーリエだ。アリアンヌはカップに手を伸ばすが、直前で触れずに止める。指先が微かに震えていた。
「私の淹れた紅茶は飲みたくないのかしらね。素直な子だわ」
ツェツィーリエは自らのカップの紅茶を一口飲んで、アリアンヌに笑い掛けた。アリアンヌは唇を噛んで俯く。
「では、先に私が頂きましょう」
リヒャルトはそう言うと、アリアンヌのカップに手を伸ばし、その紅茶を口にした。アリアンヌはリヒャルトの行動に目を見張る。リヒャルトは平然とした顔でアリアンヌの前にカップを戻した。
「リヒャルトは過保護ね。お嫁さんの紅茶に毒なんて、入れないわ」
リヒャルトはツェツィーリエの言葉に表情を厳しくする。
「そうですね。──まさか息子の婚約者に毒を盛ろうとする筈がない。もちろん、息子の大切なものを奪うこともありませんよね、なにせ、母親ですから」
ツェツィーリエは嫌味を含んだリヒャルトの言葉に表情を歪めた。アリアンヌは目の前の紅茶のカップを見つめたきり、顔を上げられずにいる。
「どういう意味かしら?」
「そのままの意味ですよ」
「息子も大きくなってしまえば、母のことなどどうでも良いのね。悲しいわ」
アリアンヌはツェツィーリエの言葉に、右隣に座ったリヒャルトをちらりと窺った。リヒャルトは眉間に皺を寄せた難しい表情で、ツェツィーリエから目を逸らさずにいる。その表情は、アリアンヌが初めてリヒャルトと、ロージェル公爵として出会った時のようだった。アリアンヌは、紅茶のカップに手を掛ける。
「貴女こそ、私を最後に息子として見たのはいつだったのでしょう。……こうしてお茶にお付き合いしたのですから、早くマリユス殿とニナがどうしているか、教えてください」
リヒャルトは、二人の安否を気遣っている。ツェツィーリエはリヒャルトの言葉を受けて笑みを深めた。
アリアンヌは二人の会話を聞きながら、その場の緊迫した雰囲気から逃れるように、赤褐色の紅茶を飲んだ。飲む直前、仄かな灯りで照らされた紅茶の色が、リヒャルトの赤銅色の髪のように見えたような気がした。
「──ねえ、リヒャルト。私は毒なんて入れないと言ったわ」
ツェツィーリエが楽しそうに言う。リヒャルトはその言葉に目を見張り、アリアンヌに目を向ける。ツェツィーリエは言葉を続けた。
「貴方は、呪いって信じているかしら?」
「まさか……」
アリアンヌが紅茶のカップを傾ける姿に不吉な予感がして、リヒャルトはその手からカップを叩き落とした。陶器が割れる音が室内に響く。アリアンヌは小さく悲鳴を上げた。紅茶のかかった絨毯が、赤黒く変色していく。
クローリス王国において呪いはお伽話の中の存在だが、リヒャルトはそれが実在していたことを知っていた。民衆には秘匿された失われた技術だ。書物のある場所も限られている。あれは確か、王城の禁書庫の奥に──
「リヒャルト、貴方は私が王太后だということを忘れているの?……ふふ、呪いは便利よ。条件と制約は多いけれど、手順に従えば対象にだけ確実に効果があるわ」
ツェツィーリエは歌うように語っている。しっかりしなければならないと思うのに、アリアンヌの意識は、少しずつ遠くなっていった。
「だからほら、貴方のお嫁さんも──」
とうとうアリアンヌの身体から力が抜ける。あ、と思う間に、その身体は絨毯の上に倒れていた。リヒャルトは立ち上がり、アリアンヌの身体を支え上半身を起こす。
暗転した世界で最後に聞いたのは、繰り返しアリアンヌの名前を呼ぶ悲痛な声と、狂ったように響く女の笑い声だった。