僅かな灯り
夜の場面なので夜に投稿したかった。
間に合ったので投稿します!
アリアンヌはそれから少し露店を見て回った。今日は友人である他家の伯爵令嬢であるフェリシテと会ったことになっている。昨年共に社交界デビューした友人は、アリアンヌより一つ年上の十七歳で、アリアンヌの友人の中でもかなり変わった女性でもあった。
一度事務所へ戻って令嬢らしいワンピースに着替えたアリアンヌは、フェリシテが事務所横に用意した辻馬車に乗り、彼女の家へ向かい、そこからシャリエ伯爵家の迎えの馬車に乗り換え帰宅した。後日改めて会うことを約束してアリバイ作りに協力してくれたフェリシテには感謝だ。
帰宅しサロンを覗くと、珍しく先に帰っていたアリアンヌの父、レイモンがいた。
「お父様、ただ今帰りました」
笑顔を浮かべ軽く膝を曲げたアリアンヌを、レイモンは無表情で見つめる。
「……ああ、おかえり」
「少し失礼しますわ」
アリアンヌがサロンに入りレイモンの向かいに腰を下ろす。メイドがアリアンヌの分も紅茶を淹れた。
「何だ」
端的に聞いてくるレイモンは相変わらずだ。アリアンヌはより上品に見えるよう意識し、紅茶を一口飲んで緊張で渇いた喉を潤した。
「アンベールお兄様からお聞きになっていらっしゃいますかしら。庭に迷い込んだ子猫の件ですわ」
レイモンは右手の人差し指と中指を眉間に当て、渋面をより歪ませた。
「ああ、聞いている。飼い主が貴族かもしれないと聞いたが」
「……はい。左耳の付け根に、高価なピアスが付いておりましたの。お兄様が、飼い主を探すと仰ってくださったのですわ」
「それで、今更それについて何の用だ」
嘆息したレイモンは話を早く終わらせたいと言わんばかりの様子だ。母のレティシアが亡くなる前は、もっと会話をしてくれていたとアリアンヌは思う。レティシアが亡くなったのは、アリアンヌが六歳の時だった。暖かい日向のような、美しい人だった。今では朧げな記憶の中では父も笑っていたように思い、アリアンヌは悲しくなった。
「お父様に改めて私からお願いして、許して頂くべきだと思いましたの」
表情を引き締めてレイモンに向き合う。アリアンヌは父の厳しさを受け入れていたが、それでも苦手なものの一つだった。
「構わん。……我が家と敵対する家の猫でなければ良いがな」
レイモンは立ち上がり、アリアンヌを残してサロンを後にした。アリアンヌは自らの紅茶の残りを一息で飲み、自室へと足早に戻った。
夕食と湯浴みを終え、微かな灯りの中でアリアンヌはベッドに腰掛けていた。アリアンヌの膝では、子猫が丸まっている。兄には名前を付ければと言われたが、飼い主がいるのだと思うと、勝手につける気はしなかった。飼い猫だと分かるように、アリアンヌが使っていないリボンを首に結んでいる。
「──明後日、か……」
呟いたのは王城の舞踏会のことだ。舞踏会が終われば、本格的に社交シーズンに突入する。昨年のアリアンヌは、少なくとも週に三日はどこかの夜会や舞踏会、お茶会に兄のマリユスのエスコートで参加していた。アンベールには幼馴染の婚約者がいるが、マリユスはまだ婚約していない。男性なので一人で参加しても良いのだが、女性に囲まれることを嫌うマリユスは、同伴と言ってアリアンヌを連れて行きたがるのだ。きっと今年もアリアンヌはマリユスが顔を出す社交に振り回されるのだろう。
子猫の背を撫でながら、アリアンヌは嘆息した。
──コンコンコンッ
軽いノックの音が響く。
「アリアンヌ様、ナタリーでございます。よろしいですか?」
「ええ」
アリアンヌの返事に入室してきたナタリーは、アリアンヌから少し離れたところで止まった。
「お休み前に申し訳ございません。こちらをお預かりしておりましたので、お返しに参りました」
ナタリーは手の上に乗せた小さなハンカチの包みを開いて、アリアンヌに差し出した。その中身を見て、アリアンヌは自然と柔らかい笑顔になる。
「ありがとう、ナタリー」
アリアンヌは、そのままではその正確な色は分からない、小さなステンドグラスの欠片でできた蝶を、指先で摘んでそっと受け取った。灯りに透かすと、そのグラデーションが確認できる。
「……こちらは、お嬢様の宝飾品箱にはお入れできかねますので、ご自身でお持ちくださいませ」
「そうね、そうするわ」
一度頭を下げ、ナタリーは部屋を出て行った。アリアンヌは自らの掌に、その蝶を乗せる。可愛らしくちょこんと乗った蝶は、アリアンヌに今日のことを思い出させた。
──この内側の緑は、私の色だね
ふと、脳内に声が響いた。彼はそう言って、悪戯に笑っていたけれど。
──駄目だよ、貴女は『私』と知り合ってはいけない。本当は、こんな風に貴女と関わることもしてはいけないんだ──
──最初に会った時にはもう気付いてたんだ。だけど今日再会した時に、私は『アルト』だからと自分に言い訳をした。貴女を私の問題に巻き込んではいけないと分かっているのに──
──貴女が……とても綺麗だったから。今日がとても幸せで、その時間に酔ってしまった。すまなかったと、思う──
幸せだったことを謝ったアルトは、何に苦しんでいるのだろう。アリアンヌといた時間を幸せと思ってくれた嬉しさにも、どこか切ない気持ちが混ざる。
「物があったら、思い出しちゃうじゃない……」
関わりを断つことでアルトが一人で苦しむのは嫌だった。アリアンヌはあの時、一生懸命考えていた。
──お友達になったのよ。ナタリーとニナもよろしくね──
『ナタリーとニナも』と言った予防線と、子供のように言った言葉。今このときだけは、辛いことも忘れて欲しかった。
「──アルト様……」
アリアンヌは蝶の髪飾りを優しく抱きしめた。呟いたきっと本名ではない名前は、夜の闇の中に、僅かな灯りのように暖かかった。