会場の片隅で
アリアンヌはリヒャルトと共に果実水を飲みながら、ダンスの音楽が始まるのを待ち、会場の端に寄った。マリユスもレイモンとの話を終え、ニナを連れて側に移動してきた。
「アリアンヌ様、お疲れ様でございます!」
ニナがすぐ隣で、アリアンヌに微笑んだ。既にマリユスとの手は離れてしまっている。アリアンヌは少し残念な気持ちでそれを見た。
「ニナこそ、大丈夫かしら?折角の夜会だったのに、残念ね」
「いえ、アリアンヌ様がご無事でいらっしゃるのが何よりです!……とはいえ私も、この状況には流石に驚きましたが」
「なんだか居心地が悪いわね……早く一曲踊ってしまいましょう」
流石に早く帰りましょうとは言えず、アリアンヌは言葉を濁した。ニナも無言で頷く。マリユスは複雑な心境をそのまま表しているかのような表情だ。リヒャルトは無言のままだが、アリアンヌの手を離そうとはしない。
それからしばらくして、やっとワルツの曲が流れ始めた。アリアンヌはほっとして、リヒャルトを見上げる。リヒャルトもいくらか雰囲気を柔らかくしてアリアンヌに微笑んだ。最初のダンスは、夜会の主役であるフーリエ伯爵の息子だ。まだ十代であろう少年は、緊張した面持ちで少女の手を引いている。
「伯爵は御高齢なのに、御子息は随分お若いのね」
「結婚が遅かったようだよ。たった一人の子供だから、箱入りであまり表に出てこないらしい」
思わず呟いたアリアンヌにリヒャルトが答える。少年と踊る少女はアリアンヌの知らない人物だったが、マリユスは納得したように頷き、口を開いた。
「トレスプーシュ家の令嬢の取り巻きの一人だな。なるほど、確かに取り巻き同士、相手には丁度良いか」
アリアンヌはマリユスの言葉が意外で問い掛ける。
「あら、お兄様。あの令嬢をご存知なの?」
「ああ、あの辺りの令嬢は何度も見ているからな。名前は知らないが、知ってはいる」
素直過ぎる言葉にアリアンヌは小さく嘆息する。ニナは驚きに目を丸くした。
「マリユス様は、ご令嬢の名前を覚えていらっしゃらないのですか?」
「覚える必要のある人は覚えるさ。ニナのことはすぐに覚えたしな」
「お兄様、褒められたことではないですわ」
アリアンヌがマリユスに言うと、マリユスはアリアンヌと似た顔を歪めた。ニナはその様子に軽やかな笑い声を上げる。
ちょうどファーストダンスが終わり、新しい曲が流れ始めた。リヒャルトはアリアンヌとマリユスのやり取りに苦笑して、ダンスに誘おうとアリアンヌの手を引いた。アリアンヌははっとリヒャルトの顔を見上げる。
「アリアンヌ、行こうか」
「──ええ、喜んで」
リヒャルトのエスコートでアリアンヌは会場の中心へと歩き出す。もう踊り慣れているリヒャルトとのダンスは、今日もアリアンヌの身体を軽くした。しかし今回は、目立たないことが目標だ。アリアンヌはリヒャルトのエスコートに身体を預け、華やかになり過ぎないように意識して踊っている。緑色のドレスが控えめにひらめいた。リヒャルトもアリアンヌの意図を汲んで、踊る貴族達に馴染むように動きを計算している。
少し離れているところで踊っているマリユスとニナは、リヒャルトとアリアンヌを見つけ、二人揃って小さく嘆息した。ダンスの最中に溜息など本来は許されない筈だが、男女共にしてしまえば、それは互いの笑いを誘うものになる。
「──アリアンヌ様、あれで目立たないと思っていらっしゃるのでしょうか」
「間違いなく思っているだろう。リヒャルト殿もそのつもりだろうが……あの二人、何してても目立つんだな」
苦笑したマリユスとニナの言葉は、しかし真実だった。妖精姫と呼ばれた亡き母レティシアに良く似た、華奢で儚くも美しいアリアンヌと、立ち姿からも気品を感じさせる美貌のリヒャルト。二人が微笑みあっていれば、それだけで誰もが目を向けずにいられないのだ。
「ロージェル公爵殿、今日は愚息の誕生祝いにお越し頂き、ありがとうございます」
曲が終わり、今にも帰ろうとしたその時、リヒャルトに声を掛けてきたのはフーリエ伯爵だった。リヒャルトは咄嗟に笑顔を貼り付け、上品に挨拶を返す。
「いえ、今日は私が招待を受けた訳ではなく、彼女のエスコート役なのです。ですが、御子息のお誕生日、誠におめでとうございます」
リヒャルトは、意図して少し大きな声で言った。ただでさえ響く芯のある声は、喧騒の中でも良く通る。リヒャルトは、周囲の人々に、フーリエ伯爵の誘いで来たと思われる訳にはいかないのだ。まして、今日はシャリエ伯爵家の家族が招待されている場なのだから、リヒャルトが出しゃばるつもりもない。アリアンヌはリヒャルトの意図を汲んで、一歩前に出た。
「本日は、家族共々ご招待頂き、誠にありがとうございました。御子息様のお誕生日、おめでとうございます。ささやかですが我が家からも贈り物をお送りしておりますので、お納めくださいませ」
優雅にカーテシーをする姿は誰もが描く理想の令嬢らしく、微笑みは妖精のように美しく、声は天使のように軽やかに。アリアンヌの姿は、貴族令嬢として完璧なものだった。フーリエ伯爵は前に出たアリアンヌに対し、不満げな表情を隠すことすらしない。