気持ちの変化
隣国に嫁いだ私が最初に躓いたのは、言葉の壁だった。王女として周辺諸国の言語は学んでいたけれど、日常に使う言葉が変わるということは、思った以上のストレスだった。ましてここには頼れる人などいない。唯一弱みを見せることができるはずの『彼』は、数日おきの夜にしか訪れることはなかった。手慰みに続けていた刺繍は、どれだけの大作になるのか分からない程に成長を続けている。それでもあのサファイアブルーの瞳を忘れることもできなかった。
華やかだった王都の大聖堂での結婚式。両国から大勢の貴族が参列し、王都中の国民に祝福された。しかしその後は、貴族の夫人達と茶会を開く以外に特に与えられた義務はない。『彼』から頼りにされることもなかった。
──それに。
私だけが、妃ではないのだもの。
そう。私よりもいくぶん年上の『彼』に、一人も奥方がいないはずがなかった。まして一国の王となる人であれば当然のことだ。『彼』は後継を作ることも仕事の一環であるのだから。こんなにも私が自分の年齢を呪ったことなどなかった。もしももっと早く産まれていたら、きっとただ一人の正妃であれたのに。現実には『彼』と年齢の近い側妃が一人、私よりも先に嫁いでいたのだ。カトリーヌという名の彼女は、この国の有力貴族の令嬢らしい。彼女はとても良い人だった。私に声を掛けてくれて、私の国について聞いてくれて、たまに贈り物もくれた。言葉の違いに悩む私に、故郷の言葉を教えて欲しいと言ってくれた。『彼』と過ごす時間より『彼女』と過ごす時間の方が長く、たわいのないその時間を幸せだと思うようになった。
だから彼女から告げられた言葉には、困惑と動揺が強かったが、それでも祝福したいと思った。
「──私、妊娠したの」
瞳に涙を溜めて私を見る『彼女』は美しかった。今にも泣き出してしまいそうだった。だから私は、できる精一杯の笑顔を浮かべた。
「おめでとう、元気な子が産まれると良いわね」
私にとっては、『彼』より『彼女』の方が心配だった。王太子であり多忙で、私の元には数日おきの夜にしか訪ねてこない『彼』は、以前の寂しい生活を思い出させる。お父様にも他の親族にも構われないまま過ごした、これまでの日々を。『彼女』は、私にとって初めてできた親友だ。少なくとも私はそう思っている。
「ありがとう。──ごめんなさい……」
正妃である私より先に子ができてしまったことへの罪悪感か、側妃だからと誰かに何かを言われたのか。私は『彼女』の手をできるだけ優しく握った。
「強くならなければ。貴女は、この子を守るのでしょう?」
分かりもしない親心を口にすれば、『彼女』は嬉しそうに笑った。私はそれが嬉しかった。
──そうして産まれてきた子供は、私が惹かれた『彼』と同じ、美しいサファイアブルーの瞳を持っていた。
ニナが夜会に出席するのを決めたのは、アリアンヌのことが心配だったからだ。リヒャルトが来たあの日、サロンで二人の話を聞いて、その場に行けるのなら行きたいと思った。だが、まさかその為にドレスを贈られるなどとは思ってもいなかった。
「良いじゃない、ニナ。とても似合っているわ」
アリアンヌがにっこりと満面の笑みでニナを見る。しかしニナは、目の前にいるアリアンヌの美しさを愛でることの方が大切だった。
「アリアンヌ様は今日も本当にお美しいです。ご一緒できて嬉しいです!」
今日のニナは、マリユスに贈られた赤いドレスを着ている。すっきりとしたマーメイドシルエットのドレスは、膝より少し上までの切り込みが入っており、中に合わせたペチコートのドレスと同色のフリルが見えるようになっていた。ワンショルダーのドレスは大人っぽく、腰の薔薇を模した大きなコサージュが印象的だ。同色の赤いレースのグローブが肘までの肌を覆うのもいじらしい。鍛えられた細身の身体は、妖艶なシルエットの赤いドレスを着ても下品になることはなく、むしろニナの魅力を引き出していた。
「このドレスを贈ったのがマリユスお兄様だと思うと、複雑な心境だわ……」
呟いたアリアンヌにニナは笑う。それでも、確かにマリユスはニナの希望を汲んでドレスを選んでくれたのだ。それもマリユスのことなど一切考えてもいない、いざというときにアリアンヌを守って動けるドレスが良いという希望をだ。ペチコートはドレスで見えないがズボンになっていて、腰に飾られた大輪の薔薇のコサージュの裏側には、短剣を仕込むポケットまである。どこの密偵か刺客だという装備であるし、きっとここまでの物は使わないだろうが、その心遣いは嬉しかった。
「──マリユス様はもしかして、とても素直な人なのですか?」
マリユスと最初に会った時の印象が勝ったままのニナが、アリアンヌに聞いた。アリアンヌはころころと笑い声を上げる。
「さあ、どうかしら。私にとってはお兄様だから、よく分からないわ。ニナが自分で向き合って、考えることじゃないかしら?」
アリアンヌの言葉は率直だが尤もだ。ニナは薔薇のコサージュに手を添えて、曖昧に頷いた。