マリユスの悩み1
マリユスは途方に暮れていた。レイモンの執務室に呼び出されて数日、まだ一人の令嬢も夜会に誘っていなかったのだ。姉や妹がいる友人の家を訪ねてみたが、既に相手がいたり、甲高い声で話しながら近付いてこられたりと、思うようにいかない。ただ側にいても騒がず、普通に一晩夜会に付き合ってもらえれば充分なのに、その条件に合う女性が見つからないのだ。
「兄上に頼るか……いや、兄上はあれでいて厳しいからな」
マリユスは誰もいない庭で小さく嘆息した。シャリエ伯爵家のタウンハウスには、小さいが鍛錬場がある。複数名で使える大きさのものではないが、使用人同士が手合わせをしたり、アンベールとマリユスが友人と運動をするには丁度いい大きさだ。あまり広くない庭の片隅にあるそこで身体を動かして、もやもやとする気持ちを晴らそうと、マリユスは模造剣を片手に持って庭を大股に歩いている。アリアンヌはきっともう寝台の中だろう。使用人もほとんどが部屋に戻っている時間だ。マリユスは物音を立てないよう気を遣いつつ先を急いだ。
やがて見えてきた鍛錬場からは、小さいが明かりが漏れていた。こんな時間に誰がいるのだろう。不思議に思いながらも、マリユスはその入口の扉を静かに開けた。
「──はぁっ!ふ……っ」
聞こえてくる声は、女性のものだ。今日友人の家で聞いた甲高い飾った声とは異なる、低く響く芯のある声。中を見て、マリユスは思わず動きを止めた。呼吸すら止まってしまったかのような気持ちになる。
そこにいたのは、一人の女だった。茶色の長い髪を高い位置で無造作に一つに束ね、簡素で動きやすそうな服を着ている。薄茶色の瞳は、仮想の敵を見据えているのかすうっと細められており、凛々しい印象を与えた。
いくつかの炎の明かりが揺らめく中、細く引き締まった身体から次々と繰り出される剣戟に、マリユスは感心して目を奪われた。まだ年若い女だ。これほどの剣の使い手はなかなかいないだろう。妹のアリアンヌなら、この重さの模造剣を数回振り回しただけで転んでしまうに違いない。女は剣を突きつける動きをして、仮想の敵を追い詰めたのか、肩の力を抜いた。少し乱れた呼吸が響く。
「──なかなかの手練れじゃないか」
マリユスは鍛錬場の中に歩み入り、声を掛けた。女は勢い良く振り返る。マリユスの姿を確認すると、驚きに目を見開いた。
「マリユス様ですか!?……お邪魔でしたでしょうか、失礼しました」
女は一礼し、鍛錬場の端へと寄ろうとする。マリユスは慌てて首を振った。
「いや、邪魔をしたのは俺だから気にしないでくれ!こんな時間に鍛錬か?」
「はい。日中は働いていますので、夜間でないとなかなか時間が取れなくて……」
僅かに目線を下げた女に、マリユスは少し面白くなる。
「なぁ。俺と一戦やらないか?武器は模造剣のみで、剣が落ちるか、敗北を認めさせたら勝利だ」
分かりやすいルールだが、女はたじろいだように一歩引いた。明かりの炎が小さな音を立てる。
「ですが、もしお怪我などなされたら……」
「それは俺が下手だったってことだな。大丈夫、無茶はしないからさ」
女は頷き、中心から少し距離を取った。マリユスは空いたスペースに立ち、模造剣を構える。女もまた姿勢を整えた。
互いの呼吸が揃った瞬間、女が素早く距離を詰める。マリユスは一歩引きながら女の模造剣を受け、衝撃を逃した。そのまま体重を斜めにかけて、女の後ろに回る。狙った隙を突こうとすると、女は背後に飛んでそれを避けた。間合いを見直し、互いに距離を測りながら何度か打ち込む。模造剣がぶつかり合う小気味良い音が、二人きりの鍛錬場に響いている。
マリユスはそれまでの憂鬱な気持ちも全て忘れ、目の前の一戦に夢中になった。女の剣捌きは美しくも荒々しく、どこか喧嘩殺法めいたものでもある。家庭教師に剣を教わり、貴族の友人同士で打ち合っていることがほとんどのマリユスにとっては、実践に基づくその剣技は、新たな発見だった。
ふと、目の前の女が誰なのか気にかかった。無造作に束ねられ、先程から激しく動いている真っ直ぐな茶色の長い髪は艶やかで、肌はとても白い。細くしなやかな身体は荒々しい動きの中にも品を窺わせた。何よりその薄茶色の瞳が、マリユスの動きを注視し、少しでも意識を動かした途端に反応を返してくるのだ。マリユスは若い女と二人でいて、これほどに興味を惹かれたことは初めてだった。
「──勝負ありましたね」
意識を逸らした瞬間の隙を突かれ、追い詰められたマリユスの喉元には女の模造剣の先が突きつけられていた。マリユスは片手をひらひらと振り、降参の意を示す。女はそれを受けて模造剣を下ろし、その場に雑に腰を下ろした。女の息が上がっている。マリユスも真似て隣に座る。どちらからともなく、自然な笑い声が漏れた。
「貴女は強いんだな。どこで剣を?」
「男ばかり四人の兄弟でして、一緒に遊んでいる内に自然と覚えました。お陰で今こちらで働かせて頂いているので、兄達には感謝ですね」
女は剣を振るっている時よりも少し高くなった声で自然にマリユスに笑いかける。社交界ではほとんど見たことのなかった自然な女の笑顔に、マリユスは目を見張った。そのままの勢いで、礼儀も作法も忘れ、マリユスは女の手をがっと握った。
「──頼みがある。どうか今度の夜会に、俺のパートナーとして一緒に来てくれないか」
女は驚いたように目を丸くした。手を引くが、マリユスは逃さないとばかりに力を強める。
「駄目か?俺は今、相手が見つからなくて困っているんだ。人助けだと思って、協力してくれないか。これで相手が見つからないと、俺は父上に縁談を持ってこられてしまうんだ」