物語の始まり
ここから第四章です。
引き続きよろしくお願いします!
──あれは、いつのことだっただろう。
嫁ぎ先が私の知らないところで勝手に決められたと聞いたとき、私は心の何処かでそうなることを分かっていたと自覚した。私は国王の娘だから、閉ざされた世界の中で生き、見知らぬ人に嫁ぐのは当然のことだ。その日の為に私は国民の税によって美しく飾られ贅沢な暮らしをしているのだと、幼い頃に家庭教師が言っていた。だから仕方がないのだ。
そもそも親しい異性など一人もおらず、兄弟とも疎遠だった。叔父は私を気にかけてくれていたようだったが、それでも関わりは薄かった。私の世界はいつも私と侍女だけで、堅牢な石造りの王城の一角で閉じている。これからも、閉じられた世界の場所が変わるだけだ。
そう思っていたから、初めて『彼』に出会った時の感情の動きには自分でも驚いた。
「君が、私の妃になるんだね」
『彼』は初対面の私に微笑み、手を差し伸べた。『彼』にとっては特に意味のないことだったのだろうと今では思うが、私はその美しくも若い隣国の王太子に目を奪われたのだ。ダンス以外で私に手を差し伸べてくる異性なんて、子供の頃からもうずっといなかったのだから。
私より年上らしい『彼』の、澄み渡るサファイアブルーの瞳が真っ直ぐに私に向けられる。『彼』がどんな人なのかは分からないけれど、これは友好国としての絆を深めるための縁談だ。私も『彼』と仲良く暮らしていければ良い。
「──ええ、これからよろしくお願い致します」
生まれて初めてのときめきと言える感情への動揺を隠し、差し伸べられた手に自らの手を重ねる。ぎこちなく微笑んだ私に、『彼』は優しく微笑み返してくれた。
「アンナさん、相談屋を辞めるって本当なんだね」
アリアンヌは結婚式の準備と増えた勉強の合間を縫って、事務所をこっそりと片付けに来ていた。必要なものは持ち帰り、不要な本等は相談屋として知り合った人々に譲る約束をしている。
コームが訪ねてきたのは、この片付けも何度目かになったときのことだった。コームは王都で評判の探偵で、白髪混じりの上品な男だ。アリアンヌも、何度も依頼を回してもらっていた。リヒャルトにアリアンヌを紹介したのもコームだった。
「まぁ、コーム様。私からご挨拶に伺おうと思っておりましたのよ。ご足労頂いてしまって……」
アリアンヌは雑多に物が置いてある室内で、唯一その周りは物がない、応接スペースのソファをコームに勧めた。今日も護衛をしていたティモテが、片付けの作業を続けながらも突然訪問してきた男への警戒を強める。ナタリーが紅茶を淹れるために席を立った。
「いや、私こそ待たなくてすまなかったね。最近あまり見かけなかったから、噂を聞いて年甲斐もなく会いに来てしまったよ」
寛いだ様子でソファに座るコームは、向かい側に座ったアリアンヌに笑顔を見せた。戻ってきたナタリーが紅茶を置き、片付けの作業に戻る。
「まぁ、コーム様ったら。──ええ、ちょっとこれから忙しくなるので……」
曖昧に笑うアリアンヌに、コームは訳知り顔で頷く。
「そうだね。……結婚するんだから仕方ないか」
「まぁ!やっぱりご存知でいらっしゃったのね」
アリアンヌは紅茶を一口飲んだ。今日もナタリーの紅茶は美味しい。
コームの王都での評判は、主にその洞察力によるものだ。これまでアリアンヌの正体については一切コメントをしてこなかったが、やはり気付いていたのだろう。
「アンナさんの本来の身分なら分かっていたけれど、本当の名前を知ったのは最近だったよ。とんでもない人と結婚するんだね」
コームは苦笑して紅茶を手に取る。アリアンヌは、これまでの間、気付かない振りで接してくれていたコームに感謝した。
「──ありがとうございます、コーム様。ですが、私にあの方との出会いを運んで来たのは、コーム様ですわよ?」
「はて?」
アリアンヌの言葉にコームは首を傾げる。何でも見通す彼だが、気付かないこともあるものかとアリアンヌは思った。そして、楽しそうに種明かしをする。
「行方不明の猫探し、ですわ。コーム様には、本当に感謝してます」
コームは納得した表情で手を打った。
「ああ、あの時の──彼も貴族だろうとは思ったが、なかなか上手く化けるものだね……」
言葉を濁したコームは、王弟とは思わなかったと言いたいのだろう。アリアンヌも頷く。
「本当に。私も驚きましたわ」
控えめに微笑んだアリアンヌに、コームもまた笑みを浮かべた。紅茶のカップに手を添えたまま、コームは僅かに目を伏せる。
「……仕方ないのは分かっているが、寂しくなるね。アンナさんがお嬢様だとは知っていたから、いつかは辞めてしまうのだろうと思っていたが、こんなに早いとは。最初は何を酔狂なと思っていたが、依頼人に寄り添って小さな事にも気を配る。その姿勢には感心していたんだよ」
「コーム様……」
アリアンヌも思わず目を伏せた。コームは短く嘆息し、気を取り直したように苦笑した。
「寂しいなんて言っていられないね。これから君はもっと多くの人々と出会い関わるのだから。きっと相談屋での経験は、アンナさんにとって糧になるはずだよ。──頑張って、何かあればいつでも相談に乗るからね」
「私、コーム様のこと、ここで出会った皆様のこと、忘れずに大切に致しますわ。本当に、ありがとうございました」
「いや、私こそありがとう」
コームはアリアンヌに右手を差し出した。アリアンヌもまた右手を重ねる。友人同士のように交わされた握手に、アリアンヌは溢れてしまいそうになる涙をぐっと堪えた。