01 プロローグ ①
「さて、どうしたものか……。」
隠れている木々の陰から顔を出して辺りを見回すと、生い茂る木々の間にポッカリと開いた空き地に目測で全長1~2m近くあるであろう大鹿が悠々と野草を食んでいるのが見えた。今回の依頼は確かあの大鹿を倒し、角を持って帰ってくる事だった筈だ。
幸い鹿はまだ此方の存在に気付いていないようだ。 これなら急所を的確に撃ち抜く事が出来る。
「よし……。」
俺は腰のポーチに手を伸ばして、愛用の武器を取り出した。
銀色に輝く、ビー玉よりもふた回り小さい球体。『パチンコ玉』と呼ばれる球体を俺は念の為に2つとも口に入れた。
口中に鉄特有の味が広がり、少しえずいてしまいそうになったがそれをグッと我慢する。
パチンコ玉の1つを前歯で優しく噛んで固定し、舌先を口蓋縫線辺りに付けた。
唇を窄めて、標準を付けやすくして狙いを大鹿に定めた。狙うのは自己主張の激しい対を成した角と角の中心、眉間。
(行くぞッ!)
舌先を勢い良く舌にずらして、前歯に固定していたパチンコ玉に舌が当たった途端にそれは起こった。
スコォォーーーーンッッ!!
森に鳴り響いた軽快な音に鹿が気付いた頃にはもう手遅れだった。
風を貫いて発射されたパチンコ玉の軌道は微動だにせず、まるで大鹿の眉間に吸い寄せられるような軌跡を描いて鹿の眉間を貫通した。
鹿は黒眼をグルンと回し、地面に倒れ込んで痙攣し始めた。
「よし、兎にも角にも依頼は完了!」
ガッツポーズをすると、俺は木の陰から飛び出して地面に倒れ込んだ鹿の元へ向かった。大鹿の周りには赤黒い鮮血の湖が出来ており、痙攣も既に止まっていた。
使用したパチンコ玉の行方を探すと、鹿の背後の大木にパチンコ玉が深く深く減り込んでいるのを見つけた。目測で3cm程度だろうか。もう回収は出来ないらしい。
「さて、それじゃあ……!」
腰のホルスターから刃渡り20cm程度の鋸を取り出すと、大鹿の角に刃を掛けて、上下に押し引きしながら角の切断を始めた。
こういう穏やかな森の中で作業をしていると様々な音が聞こえてくる。
「おっと……。」
そういやまだ口の中にパチンコ玉が1つ残ってたな…。
残っていたパチンコ玉を手に吐き出すと、それを着ているパーカーで軽く拭ってまたポーチに戻した。
先程のような芸当が出来たのはれっきとした理由がある。
「……。」
俺は生まれつき、口周りの筋肉が異常に発達している為だ。それも数十倍のレベルで。
見た目としては常人と然程変わらないのだが、能力は自分で言っていいのかわからないが、まさしく超人だと自負している。
顎の力は煮た鳥の骨を粉砕する程、歯の強度は抜いた歯に金槌を全力で振り下ろしても亀裂1つ入らなかった。そして、俺の最も自信があるのは舌の筋肉の硬度と力だ。
舌を全力で突き出したなら厚さ2cmの木の板を綺麗に叩き割る程の爆発的なパワーを出し、そのスピード、破壊力は計り知れない程だった。
何処ぞの暴力団の総長のように束ねたトランプを引き千切るような荒技をするのは不可能な上、実用性なんか皆無。隠し芸として披露した曉には昔のように『地上最強の舌』という渾名を付けられる始末になる無駄な体質なのだが、それは『前の世界』での話だ。
「……。」
この世界はどうやら俺が昔居たような世界とは異なる世界のようだった。
元の世界のように街の至る所に機械が散りばめられ、人が電子機器を何よりのパートナーとした退廃的な世界では無い。
この世界は何よりも自然が溢れている。遥か過去の日本のように人と自然とが上手く共存し、お互いを尊重し合っている。
インターネットなどの情報通信技術は勿論、石炭や石油といった化石燃料を用いた機材や電力を自由に発生させる方法も、まだ開発されていないような世界だ。
平たく言うなら人類が地球を喰い物にする以前の時代。年代で言うと丁度中世くらいだろうか。どうにしてもこの世界は俺にとっては最高に住み易い、絶好のプレイスだったのだ。
「おっ…!」
大鹿の太い角が切断され、地面に落ちた。
俺はそれを拾い上げると鋸をホルスターに仕舞って、その場を去った。
え?何で大鹿の骸を残しておくんだって?それは勿論決まっているじゃないか。
元々、人類は他の生物の生命を無闇に奪ってはならない。それは生態系をブチ壊してしまう恐れがあるからだ。
生態系というのはとても不安定な三角形で構成されている。
一番下級は圧倒的に数の多い、三角形の基盤となる植物や微生物といった弱い動物。
その上に来るのは植物よりも数の少ない先程の大鹿やウサギといった草食動物。
そして三角形の頂点に立つのは鷲や虎などの肉食動物。これは一番数の少ない種類で、人間もこれに含まれる。因みに怒りを喰らうイビルなんちゃらもこれに入る。
これらが上手くバランスを保つ事で生態系は守られ、森羅万象が完成する。
肉食動物が死ねば土に還り、地中の微生物に分解された後に植物の栄養となる。
このサイクルを自然は遥か古来から無限に繰り返してきた。
そして、今、目の前でもその現象が起ころうとしている。俺が殺めた大鹿の命は、魂はまた自然に回帰するのだ。これが人間が命を殺める際の最低限、最重要の礼儀なのだ。
もし、人間がこれらの3つの中のどれか1つの種を乱獲すれば、その個体数は極端に減少、それを食べる動物は減り、逆にそれに食べられる物は増える。
この歪な形が元の形になるまでにはかなりの時間が掛かる。
その為、人は出来るだけ自然のサイクルには干渉せず、あくまで傍観者としての立ち位置に居なければならない。
人が自然に干渉するのは、生態系に甚大な被害をもたらす動物が現れた時や増え過ぎた動物の間引きのみだ。
今回の大鹿もそうだ。この大鹿はつい先週、山道を通る旅人を襲って重傷を負わせた。その旅人はもう一生旅の出来ない身体になってしまった。
次の被害者が増えないよう、凶暴化した大鹿を早急に退治する事になり、その役を俺に任されたという事だ。
「さて、帰るか……!」
俺はこの世界にやって来て、転がり込んだ場所が悪かったという事なのだろうか。 だが、俺は決して悪い所だとは思わない。
むしろ俺に温かい食事も、寝床も用意してくれる彼女はとても良い人だ。
「この異世界生活、楽しいもんな……。」
俺は生い茂る木々の狭間から見える青空を仰いだ。空には雲1つ無く、太陽は煌びやかに輝いていた。