ひとつのもの
2008年に書いた詩です
ひとつのものには
ひとつの形 ひとつの意味しかない
これはものを名づけてしまうことで陥ってしまう誤謬だ
ひとつのものは
本来 たくさんの形をしていて たくさんの意味が眠っている
ひとつのものは筒状になっていて
全てが通過する可能性がある
そして何かが通過することで
まったく別のものにさえなりえる
私がこの世界に存在する前と
おそらく私が死んでいなくなった後の世界
それは一見すると 何も変わらないけれど
私がこの世界に存在したという事実は
決して消えることはない
だがそれも
「私がいない世界」
と名づけてしまった途端
同じものになってしまう
名づけることは 空間に 時間に トイレットペーパーの芯に
蓋をすることだ
底ができて
天井ができて
閉じ込められたひとつのものがもがいている
言葉は今こそそれを解放しなくてはならないのに
相変わらず 多くのものを名づけている
愛とか 歌とか 幸せとか その意味を本当に知っているものなどいないのに
ひとつのものには
色々な形 色々な意味がある
同じ形をした人間にも
色々な人間がいるように
同じ形をした花にも
色々な花があることを忘れがちだ
一見 同じ形をしているだけで 実は違う形なのに
それを名づけることで ひとつにしてしまう
「花」
という言葉はどうだろう
「花」「花」「花」
この三つの花は違うのに
「花」という言葉で
「花」同士の差異がなくなる
でももしかしたら
この言葉の「花」にさえも
違いがあるのかも知れない
同じ「花」でも 文脈の中で
様々な「花」を咲かせることがあるから
その相互作用の中で
ひとつのものは様々な側面を見せる
ひとつのものはひとつのものではもはやいられない
問題は孤独ではない
問題は孤独でいられないことなのだ
否応なく 迫ってくる外界は ときとして疎ましい
ならばその外界すら
自らの内に取り込み
内界としてしまおう
逆に この私すら
外界の一部になってしまおう
そう想った途端
何も分からなくなくなってしまう
「私」とはなんなのか
「私」とは誰なのか
一体全体 どうすれば
この「私」を定義できようか
いまや「花」は「花」のまま
枯れているようにさえも見えてくる
いまや「私」は「私」のまま
別の誰かのようにさえも思えてくる
もう名づけることですら
それを手にすることはできない
そもそも手にする必要すらないのかも知れない
それらは常にそこにただありつづけるのだから
ひとつのものは
決して手にすることができない
ひとつのものは
世界そのものでもあるから
光り輝いて
とても大切なものに見えてくる
だが時として
ひとつのものは
永遠に近づけない闇だ
心と脳が 決して繋がらないように
言葉と世界が 決して重ならないように
私とあなたが 真実に出会わないように
月と地球が ぶつからないように
無口な太陽がぶっきらぼうに 朝と夜をつくる
去年よりも一歳 年老いた冬がやってくる
昨日 今日 明日 その日々さえ
夥しい「今」という
ひとつのものである
「今」「今」「今」
と
「花」「花」「花」
の差異とは
今が咲く 花が過ぎる 今が枯れる 花が去る 今が散る 花がやって来る
言葉はときに現実を超える
ひとつのものは ふたつになり みっつになる
ひとつのものは 無限になる 心の中だけで
無限になる 心の中だけで ひとつのものは
心の中だけで ひとつのものは 無限になる
目を開く 見えた光景を限定する 私
無限の可能性を
一点へと収斂するのが言葉だ
その時
ひとつのものは ひとつのものは ひとつのものは…
言葉にした途端
消えて行ってしまう
言葉が咲く 言葉が過ぎる 言葉が枯れる 言葉が去る 言葉が散る 言葉がやって来る
言葉はときに言葉を超える
ひとつのものは
とても小さい
見えない
届かない
聞こえない
感じない
沈黙する
永遠に
ひとつのものは
死んでいく
静かに
ひっそりと
気づかれずに
ひとつのものは
泣いている
夢の中で
そっと
目を閉じる
眠る
息をする
意識が
消える
ひとつのものは
何も
限定しない
自由になる
言葉も
意識も
世界も
何も
邪魔できない
ひとつのものは
全てになる
永遠になる
なくなる