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第3話 刻印


「!!」


桃世が目を開くと、視界には見慣れた白さが広がっていた。屋上で気絶したはずが、いつの間にか、自宅のベッドの上に横たわっていた。ばっと起き上がり自分の身体を見下ろす。いつも着ているピンク色のお気に入りのパジャマが身体を包んでいた。


(夢……?)

慌てて首筋に手をあてるが、滑らかな皮膚の感触があるだけで、何の異変も感じられない。よかった、あれは悪い夢だったのだ。桃世はそっと胸をなで下ろす。


 時計の針は9時過ぎを差しており、窓の外は真っ暗だった。こんなに早い時間帯に布団に入っているなんてありえない。帰ってからいつの間にか寝てしまったのだろうか? ひとまず落ち着こうと、彼女は水を飲みに部屋を出た。



 リビングのドアを開けると、台所に立っていた母親が、桃世の姿を認めて目を見開くと、そそくさと駆け寄ってきた。きょとんとしている彼女の頬を掌で包み込んで瞳を覗き込んでくる。

「良かった……! 熱はない? 気分はどう? お粥用意してるけど何か食べられる?」

「え、ちょっ、え……何?」

慌てた様子の母に桃世は狼狽するが、母はそんな彼女に構わずひたすらボディチェックを隅々まで行おうとする。

「母さん、落ち着いて! えっと、あの……そんなに慌ててどうしたの?」

桃世は母の手を握って制すると、とりあえず事態を把握しようと問いかける。娘の問いに、母はしばしぽかんとして、それから怪訝そうにまじまじと彼女の顔を見つめた。


「……覚えてないの?」

「え?」


 今度は桃世が呆気にとられる番だった。母は軽く息を吐くと、手近にあった食卓の椅子を引いて座り、桃世にも座るよう目で促した。

「あんた、下校中に通学路で倒れたらしいの。それで、たまたま居合わせたクラスの子がここまでおぶって連れて帰ってきてくれたのよ」

「クラスの……?」

「そう。確かね……十七夜月君、だったかしら」


 その名を聞いた瞬間、思わず顔が強張る。指先が小刻みに震え、それを気取られまいと机の下で両手を組んでぎゅっと握りしめた。

「なんで、十七夜月君が……」

「え? 何?」

「っ、ううん! 何でもないよ!」

桃世の表情がわずかに曇ったのを、母が目敏く見つけて指摘する。母を心配させまいと、無理に苦笑いを浮かべた桃世は、「それより、ご飯もお風呂もまだだったよね! もうお腹減っちゃってさー」と、立ち上がって台所へ入り鍋の中を覗き込んだ。


「……本当に大丈夫なの?」

「え? うん、もう大丈夫。ここのところ寝つき悪くて寝不足だったんだよ。たぶん原因それだけど、さっきいっぱい寝たし」

にっこりと笑ってみせると、母は渋々「まあ……ならいいけど」と納得のいかない顔をしながらも夕飯の支度を再開した。



(十七夜月君が、運んでくれた……)

一人で食卓に向かい、黙々と粥を口に運びながら考える。

 自分と彼には、同じクラスという以外で今までに接点などない。毎日同じ教室の中で黒板に向かうだけの関係で、言葉を交わしたことすらない。そんな彼が、わざわざ家まで自分を連れて帰って来たなんて、どう考えてもおかしすぎる。家や先生に連絡をするのが普通だ。――そうできない事情がない限りは。

(あれはやっぱり、夢じゃなかったってこと……?)


 屋上での光景が蘇る。現実離れした異形の生き物。それと対峙するクラスメイト。辺りを染める大量の血……。

 赤黒い澱みを思い出して、思わず食べた粥をもどしそうになる。大丈夫だと母に言った手前、吐くわけにはいかない。桃世はぐっと息をつめてなんとか胃の中のものの逆流を抑えると、れんげをそっと器に置いた。

「……ごちそうさま」

「あら、もういいの?」

台所のカウンターから、母が顔をのぞかせる。彼女の目は、半分以上粥の残っている器に留まった。

「うん、なんかお腹いっぱいになっちゃった」


 母が不審な目を向けてくる。その視線にむずむずとした心地の悪さを感じたが、無理やり振り切り、「さっさとお風呂入って寝ちゃうね」と告げ、着替えを持つとぱたぱたと脱衣所へと向かった。


 脱衣所の戸を閉め、ふーっと大きく息を吐く。背後の戸にもたれかかって目を瞑ると、だんだんと気分が落ち着いてきた。そっと瞼を持ち上げ、天井を見上げる。

(……ホント、どうかしてる)

そうだ、あんな映画のようなことが現実であるはずがない。きっと倒れている間に見た夢を現実と混同しているだけだ。


 まっさらな天井を見つめていると、だんだんとそれが真実であるような気になってきた。桃世は静かに微苦笑する。今日こそしっかり寝よう。あの妙な夢を見ないように、寝る前に温かいミルクでも飲もうか。そして明日、学校に着いたら彼にお礼を言わなければ。たまたま倒れた現場に居合わせたというだけで、家までおぶってくれたのだから。


 着ていたパジャマのボタンをひとつひとつ外していく。3つ目のボタンに手をかけたところで、ふと手を止めた。


 左の胸の、隆起が始まるくらいの位置に、タトゥーのような黒い模様がついていた。羽根を広げて宙を舞っているような蝶に、2本の蔦が絡まっているような絵柄だ。


「え……、何これ……」

そっと指でそこを押してみるが、痛みなどは感じない。いつの間にこんなものが。愕然として、桃世はしばらくの間胸元を見つめていた。




 翌朝。

 桃世は、いつものように家を出て駅へ向かう。昨日の今日で母には散々心配され、送迎の提案までされたが、彼女はそれを頑なに拒んだ。


 あの後、風呂で身体を洗うついでに何度も強くこすってみたが、あの奇妙な模様は結局消えなかった。母に見てもらうことも考えはしたが、これ以上心配をかけるのも気が引ける。

(それに、答えはきっとあの子が知ってる)

模様のあるあたりのシャツの布を、桃世はぐっと握りしめた。十七夜月紅亜。彼から詳しい話を聞かないことには、何も始まらないだろう。


 そうこうしているうちに、最寄り駅が見えてきた。すると、突然得体のしれない気持ちの悪さが襲ってきて、桃世は思わず足を止める。頭がなんとなくぼんやりする。それも、ふわふわとした感じではなく、どんよりと重苦しい何かが額にのしかかってくるような感覚だ。


(まだ本調子じゃないのかな……?)

桃世は額に手をあてる。とりあえず熱はないようだ。やっぱり、今日のところは帰ろうか。彼女の足が一瞬だけ駅とは逆の方向を向く。しかし同時に、家を出る時に見た、母の心配そうな顔が頭の中をよぎった。これ以上心配をかけるわけにはいかない。それに、学校に行かないことには昨日のことは分からずじまいだ。桃世は、大きく息を吸って吐くと、背筋をぐっと伸ばした。気分が優れなくても、最悪保健室で寝ていればいいだろう。


 改札を抜けると、ホームはいつも以上に多くの人でごった返していた。何事かと、桃世はきょろきょろと辺りを見回す。

ふと頭上の電光掲示板を見る。行先の横の到着時刻が消え、一番下に『人身事故の影響で、現在運転を見合わせております』というメッセージがさらさらと流れていた。

「うそ、遅延?」

愕然として桃世は呟く。久しぶりに事故に巻き込まれた。とにかく遅延証明書をもらいに行かなければと、彼女は踵を返した。


「――ったく、ふざけんなよこんな時に」


 その時、近くの人ごみから男性の声がやけにクリアに聞こえた。その瞬間、ドクッと心臓が痛いくらいに一つ脈打ち、桃世は思わず足を止める。


「今日は大事な会議があるから遅刻できねえんだけど……」

「ヤバいなー、次1限休むと単位落としちゃう」

「もう朝の補講間に合わないよね、最悪……」


 ぽつりぽつりと、辺りから不満の声が聞こえてくる。当たり前だ。皆、どこの誰かも分からない人間の生死より、自分の予定の方がずっと大事なのだ。文句が出てくることはいたしかたないだろう。こんな風に不服そうに周りがぼやくのを、もう何度も目にしてきている。



「こんな忙しい時間帯に、飛び込みなんかしてんじゃねえよ」


 ただ、普段と違うのは、自分の身体だ。周りの声に呼応して、先ほどから桃世を襲っていた鈍痛がどんどんと強くなっていくのだ。しかも、額だけでなくこめかみのあたりもずきずきと疼く。心臓の鼓動が速くなって、うまく息が吸えない。何とかして酸素を取り込もうと、桃世は必死に浅く呼吸を繰り返す。それでも、だんだん足に力が入らなくなってくる。近くの柱に寄り掛かって立ち続けようとしたが、耐え切れなくなって桃世はずるずると膝から崩れ落ちた。


 どさりという音に、周囲の目が一斉に彼女に集中する。しかし、誰も助けに来ようと近寄る者はいない。遠巻きに鬱陶しそうな視線を投げかけられる。その視線が、まるで鋭利な刃物となって彼女の身体のあちこちを貫いていくような感覚に襲われる。本当に何かで刺されているわけではないのだが、身体中がまるで血を流しているかのようにじくじくと痛む。


(何、これ……なんで……)


 視界が白く霞む。もう、これ以上意識を保っていられない。ふらりと上半身が傾いだ。


 その瞬間、誰かの大きな手が彼女の肩をしっかりと支える。すんでのところで意識を手放さずに済んだ桃世が顔を上げると、見慣れた赤い瞳とぶつかった。




 彼女の腕を自分の肩に回させ腰に手を回すと、紅亜はゆっくりとした足取りでホームを後にした。駅員に何事か言って改札を抜けさせてもらった彼は、そのまま駅を後にする。


「十七夜月、君……」

少しだけ呼吸の楽になった桃世は、掠れた声でクラスメイトの名を呼ぶ。彼はそれに応えることなく、無言のまま駅から少し離れたところにある自然公園へと向かう。


 平日の朝、人気の少ない公園は静まりかえっていた。聞こえる音と言えば、小鳥のさえずりのみ。公園を入って少し歩き、彼は池のほとりのベンチに桃世を座らせた。

「えっと、ありがとう……」

だいぶ気分が楽になった桃世は、目の前に立つ彼を見上げておずおずと礼を述べる。それでも黙ってじっと自分を見下ろす視線に居心地が悪くなり、彼女はそっとうつむいた。


 沈黙が落ちる。ざわざわと風が木の葉をこする音、からすの鳴き声が耳に痛いほどよく響いた。何か言わなければ、進まない。桃世は再びその静寂を破った。

「あの、さっきのは何だったの? なぜか人の声で気分が悪くなって、なのに今は嘘みたいに何ともないなんて。やっぱり、昨日のことが関係していたりするの? 昨日のあの化け物――」


「お前」

唐突に紅亜が口を開く。何か教えてくれるというのだろうか。桃世は黙って次の言葉を待った。


「脱いで見せろ」


「……は?」


 しかし、彼の口から飛び出したのはとんでもない言葉だった。桃世は一瞬自分の耳を疑って、ぽかんと口を開けたまま間抜けな声を出した。


 その間に、紅亜は桃世の両腕を片手でひとまとめにすると頭上に掲げ、もう片方の手で彼女のシャツのボタンに手をかけて一つずつ着実に外していく。

「ちょっ!? 何、やめてってば!!」

桃世は驚いて暴れるが、腕を絡め捕った手はびくともしない。さほど屈強そうにも見えない細腕の彼の、どこからそんなに強い力が出るのだろう。謎の怪力に戦慄しながらも、桃世は抵抗を続けた。


 3つ目のボタンを外したところで、ぴたりと彼の手が止まる。紅亜は、左側の襟元をめくった。彼の視線が注がれているのは、件の模様が浮き出ているところだ。桃世はぐっと息をつめて顔を横に背けた。


「……やっぱりな」

それだけ呟くと、紅亜は興味をなくしたようにぱっと桃世の腕を解放する。シャツの襟元を掻き寄せて胸を隠すと、目の前に立つ紅亜をきっと睨みつけた。

「何すんのよ、変態!」

「人聞きの悪い言い方するな。俺は確認をしたまでだ」

「確認……?」

棘を含んだ声で桃世が問い返すと、紅亜はひとつ頷いた。


「胸元の刻印を――お前が人でなくなった証を確かめた」



 彼の言葉に、桃世は目を見開く。木の葉の音が、よりいっそう大きく辺りに響いた。


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