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きらきら光る (試読版)

作者: 直江 靖浩

   *


 判然としない意識の中、井上圭太は鈍い頭の痛みを覚えて目を覚ました。

 ワンルームの部屋に布団があちらこちらと乱雑に広げられている。隅に寄せられた小さなテーブルの上やその周りにはスナック菓子の空き袋や、潰されたり凹まされたビールやチューハイの空き缶が転がっている。超小規模の修学旅行の朝みたいだった。薄っぺらなカーテンを容赦なくすり抜けて差し込む白く爽やかな光が、それに似つかわしくない乱れた室内を映し出していた。

 いま何時だ? 半分しか開いていない目で手近な布団をまさぐり、手の感触を頼りに携帯電話を探した。何かが指先に触れ、布団をめくるとごつごつとした足首が顔を出したので手の平で打った。ぴしゃり、と良い音を立て、足は布団の奥にゆっくりと引っ込んだ。向こうに見えるベッド上では、枕元に黒い髪の毛が少しだけ姿を覗かせて静寂を保っている。自分以外の人間は皆、まだ熟睡中のようだった。

 大きく欠伸をつきながら今日の事を考えた。今日はある講義を受講する必要があった。ここに出席するのとしないのとでは、単位に大きく左右するものだった。

 昨日の帰り際、今そこで寝ている上村と佐藤の二人の友人の誘いがなければまっすぐ家に帰り、今日の講義に遅れないように床に就く気でいた。はじめはそれを理由に誘いを断ったのだが、その講義が午後一時からの三限目という事を知ると、二人は尚もしつこく食い下がった。食い下がってきたから、どうせ午後からなんだし問題無い、として三人で上村の部屋で酒を飲む事になった。

 しかし内心ではこうする事を自らが望んでいた。単位について、後の事を考えると多少ばかり憂鬱な気もするが、後の事を考えるあまりに楽しい大学生活の一環でも逃す事の方が損だと思った。今を楽しまなければ損なのだ。

 とはいえ、やはり講義の事は気にせずには居られなかった。楽しい事も満喫し、その上、講義に間に合うとくれば、まさに一石二鳥である。だから今すぐに現在時刻を確認しなければ。

 今度はしっかりと目を見開いて布団をひっくり返し、ボサボサの頭で携帯電話を探した。



「素敵な笑顔ですね」

 先日、見知らぬ男に言われたその言葉を、坂下松子は思い返していた。

  マクドナルドの窓外を向いたカウンター席の一番端に座り、ミルクと砂糖を多めに入れたアイスコーヒーのストローをすすりながら、正面にぼんやりと映る自分 の顔を眺めた。抜群の美人というわけでもない、顔も髪型も並以上のそれではい。どこかを挙げるとすれば、黒く揃った前髪だけが特徴的と言えなくもない。そ れから内面にも迫ってみた。が、自身の内面についてなんて考えた事もなく、よくわからなかった。長けた特技を持っているでもないし、目立つ事は好きではな い。

 特技を持っていないとは言ったが、強いて挙げるならば「愛想笑い」が特技とも言える。

 思い返すと、これまでの人生はその特技を駆 使して他人に合わせて生きてきたような気がする。もっと言えば、心から笑った事があまりないように思えた。愛想笑いを振り撒き、他人に合わせて目立つこと はしないという生き方は、田舎から上京してきた時に更にエスカレートした。田舎よりも遙かに多くの人種がこの東京には存在していて、何もかもが私とは違う 気がした。大人しくしていても、自分の存在そのものが不自然で、嫌でも目立ってしまっているのではないか。そう感じた。

 その頃、区役所の場所が わからずに道に迷った事があった。通り掛かった人に道を尋ねようと声をかけてみると、その人は怪訝そうに私の足下から顔までを見てから、不自然に微笑んで 道を教えてくれた。親切に違いはないのだけれど、愛想笑いを特技とする私にはその人の表情が分かってしまったのと、怪訝そうに見られた事とで、せっかく教 えてもらった道順がちっとも頭に入らなかった。何となく頭に入った道順と、何となくの周辺の雰囲気だけを頼りに区役所まではたどり着いたものの、さすがは 東京の役所だった。田舎の役所なんかとは、外観からその雰囲気までもが段違いな印象を受けた。心持ち圧倒されてしまい、入るならば確認してから、という妙 な不安感に襲われた。間違いなく、ここは区役所だった。だって正面玄関にそう書いてある。それなのに、もう一つ何か確証を得たい気持ちだった。

 向こうから人がこちらに向けて歩いてくるのが見えた。その人は男で、自分と同世代くらいに思えた。あの人に聞いてみようと決めた。

  男が近づくにつれ、その姿がはっきりと見えた。やはり歳はそれほど変わらなさそうだ。ただ、とても不機嫌そうな表情をしていて、髪もボサボサ。声をかける には少し勇気が必要になった。男はもうすぐ傍まで来ている、よし、聞いてみるぞと半歩踏み出そうとしたが、それより先に男が立ち止った。立ち止り、目の前 の建物をぼんやり眺めていた。やや出鼻をくじかれたような形になったが、私は目的を思い出して男に声をかけた。

「え、ああ、そうじゃないですか」

 男はそう言うと、横目で私を見ながら通り過ぎて行った。

 上京する前、東京の人は冷たいとよく言われていたけど私はそうは思っていなかった。「意外といい人が多いんだよ」なんていう声だってよく聞いていたから。しかし、この区役所を巡った二つの出来事は私に迷うことなく「東京の人は冷たい」に一票を入れさせる事となった。

 他人に合わせて生きている私は「東京の人」になりすます為に、知らない人に対して冷たくなっていった。


「素敵な笑顔ですね」考えているうちに再び先日の男の言葉を思い出す。

 正面の窓に目をやり、そこに映る自分の姿をもう一度眺めた。今度は口角をしっかりと上げて歯を見せて微笑んでみる。

 全然、素敵じゃない――。ぎこちないだけの愛想笑いが、ぼんやりと窓に浮かんだだけだった。

 すぐに顔を元に戻し、食べ残しの冷めたポテトをつまんで頬張った。男の言葉はその場限りでいい加減に放たれただけの言葉に過ぎないと結論づける事にした。

 だが事実、初めてそんな言葉を掛けられた事に心は躍っていた。多少なり、自分自身に期待までした。だから今みたいな何気ない時間にこうして考えてしまっていた。だからあの時、その男の「写真を撮ってもいいですか」という要求にも快く応えてしまった。

 一体何者だったんだろう。私の写真、どうするつもりだろう。

 褒められたからといって、安易に写真まで撮らせてしまった自分が今になって少し悔しく、恥ずかしくなった。

 すでに解けて氷水だけになったアイスコーヒーをストローで音を立てて吸った。



 *



 鋭く輝く赤黒い光が、箱の中のような狭く暗い空間に赤いセロハンで映した影絵のように男の真剣な眼差しを浮かび上がらせている。光が赤黒く反射する世界は少し不気味で、男の顔にも鋭さを感じさせた。

 畳一畳程の広さで、天井も尻を付いて頭がすれすれの閉鎖空間の中、膝をついて前かがみになり目下に置かれている薄く水が引かれた平たい容器の中にピンセットを突っ込む。頭のすぐ上には糸が数本引かれていて、四角い紙切れが洗濯物の様に数枚ぶら下げられている。

 川谷文仁は自宅アパートの押し入れの中でフィルムの現像に取り組んでいる。外では午後の太陽がより一層眩しく、家々の屋根やアスファルトを照らしつけていた。


 何度か転職を繰り返し最後に勤めた会社には、気がつけば三十年身を置いていた。三十代前半での中途採用で行くところまで行って、最終的には「課長」というポジションでサラリーマン人生に幕を下ろした。

  現役の頃は毎日の時間の流れに体がついて行かない程、めまぐるしく感じていた。朝五時半に起床し、トースターにパンをセットしてから顔を洗い歯を磨く。そ れが済む頃に丁度パンが焼けた匂いがしてくる。一枚だけ焼いたトーストをバターだけ塗って頬張ると、すぐに胸がいっぱいになった。ウーロン茶を冷蔵庫から 取出してコップ一杯を一気に飲む。すぐにスーツに着替え、鏡に向かってなんとなく髪を整えているうちに、時計はもう六時半を回っている。会社までの通勤時 間は約一時間半、九時始業。あと三十分以内に出発しなければいけない。

 レースのカーテンからぼんやりと差し込むだけの光の中、朝なのにどこか暗い部屋。中年男のワンルーム一人暮らしの朝は決して爽やかではない。

 仕事を定時で切り上げて、まっすぐ家に帰っても夜の九時近いし、「ただいま」を言う相手もいない。駅からの帰り道の途中、スーパーで買った出来合い物の総菜を発泡酒で流し込み、それから風呂に入ればもう二十三時に近い。疲れがとれるわけは無かった。

 休日は昼過ぎまで寝かせてくれと体が切望しているのだが、何故か意識がそれを許してくれない。いつもの時間にどうしても目が覚めた。はっきり目が覚めているのに、ただ寝転がっているだけという事はままならず、仕方なく起き上がるのだがやはり体は疲れている。

  座椅子に腰掛け、ぼんやりテレビを眺めた。どこかに出かけようという気にはなるはずもなく、腹が減れば適当に食事を済ませ、そうこうしているうちにあっと いう間に夕方になった。ただめまぐるしく、日々が過ぎる。自分が何のために生きているのか。などと考える隙もなかった。もう仕事をしたくないという想い が、ただただ頭の中をふわりふわりと常に揺らめいていた。


 一昨年に定年退職して突然暇になった。

 もう働くのが嫌だと思ってい たのに、いざ退職してみると何もすることのない自分にむなしさを感じるだけの日々が続く事になった。勤めている間は自分は誰かに、少なからず仕事には必要 とされていると実感する事ができていた。ただ忙しさに紛れてその実感が鈍っていたと気がつく。仕事がなければ外出する事もない。家族がいなければ話相手す らいない。ふと、恭子の事を思い出す時間が多くなった。

 二十三歳の春に出会い、四年付き合って二十七歳の時に結婚した二つ年下の妻とは、最後の 転職の時に別れたきりだった。出会った頃は写真に夢中になっていて、プロの写真家になる事を夢見ていたせいもあって定職に就く事を拒んでいた。会社勤めを していた恭子の稼ぎで成り立っていたようなものだ。厭みも言わず、素直に夢を応援してくれる恭子にすっかり甘えていた。恭子に対して感謝の言葉一つ掛けた 事があっただろうか。思えばいつも自分の夢、写真の話ばかりしていた気がする。実際、恭子がどんな仕事をしていたのか思い出せない程に。

完全版はいつ書きあがるのかね。

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