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「何ともなかったみたいだね」
帰ろうと、教室へ戻る途中、舞が待ち伏せていた。
「まあな」
緊張の糸が切れ、脱力気味の一矢。そう一言だけ言うと舞の横を通りすぎた。そんな様子を舞は気にする素振りもなく後をついていく。
「終わった?」
教室へ戻ってきた一矢を見て話しかける唯。
「ああ」
「じゃあ、帰ろっか」
久しぶりに唯と帰る。
朝のあのドキドキは何だったのか。
こちらから頼んだ覚えはないが、舞が世界を変えた結果に見事翻弄された。だが10時間もたたないうちに、こうして隣にいつもの相手がいることを当然だと思っている自分がここにいる。
そのことに気付いたと同時に、すでに唯が生きている世界に順応している自分がいることに驚きと共に妙な誇らしさが生まれた。
これはチャンスだ。
手から洩れた水がペットボトル入りの水となって戻ってきたのだから美味しくいたがかなくては。早いうちに、たっぷりと、じっくりと味わって。
「なあ、家に寄っていい?」
「え、今日?」
唯が少しだけ驚くように答えた。何か、自分の知らない悪い都合でもあったのだろうか。
「だって……」
唯が横を気にした。なるほど、舞の存在が気になるらしい。ここで2人きりになったら舞が1人で帰ることになる。
「あー、私の事は気にしなくてもいいよ」
「えー、でも……」
悩む唯を舞は抱きかかえながら一矢から離れさせ、小声で話した。
「気にしないでいいって。私は何も見ないし嗅がないし後の感想も聞かないからさ」
その小声はまさに絶妙な声量で、一矢にかろうじて聞き取れそうなくらいだった。
「やだ、ちょっと!」
唯が右手をあげて叩こうとする仕草に、舞はニタニタ笑いながら足取り軽く後ろに下がって逃げた。
「聞こえた!?」
少し赤面しながら聞いてくる唯。
「え、何が?」
対して一矢ははぐらかした。舞はニタニタのままこっちを見ている。やはり聞こえていたのを知っているのであろう。確信犯め。
「ということだから。まだ荷物とか片付いてないから先に帰るね!」
そう言いながら呼び止める間もなく舞は強引に小走りで駅に向かってしまった。
その場には見詰め合う2人。
「本当に帰りやがったな」
「本当に帰っちゃったね」
しばらくして無言で唯の自宅へと向かうのだった。
朝見た舞の家。舞の後に続いて入る玄関。見渡す周囲。
下駄箱の上に置いてある陶器の皿、一輪挿しの花瓶、少し褪せた大きく引き伸ばされた家族写真。写真は年1回撮り直しているということなので変更はされているが、1年前とほとんど変わっていなかった。
「……」
写真を見たことで嫌でも去年から変わっていない延長線上であることを知らされた一矢。目の奥に熱いものが生まれたが、力でねじ伏せて抑えた。
この家に来たという事はそういう事なのだ。まさか本当ににゃんにゃんをしに来ただけではあるまい。事実を知れ、ありのままを受け止めろ。今まで避けて生活してきたツケだ。
そう自分に言い聞かせてこれも抑え込んだ。
「何してるの?」
少し不自然に思われた。
「いや、何でもない」
慌てて靴を脱ぎ、唯の部屋に向かった。
ドアを開けるとやわらかい空気に包みこまれた。
決して匂いフェチなわけではないが、女性から出される甘く艶めかしい香り。そして睡眠時間も含めて一番いる時間が長いであろう自室。そこに溜め込まれたこのフェロモンが今こうして開け放たれたドアから飛び出し、一矢を包み込んだのだ。
2度3度大きく吸って深呼吸をした。
「やだ、変な事しないでよ」
「だってせっかくここに来たのに。もったいないじゃん」
「やだぁ。飲み物持ってくるから待っててね」
恥ずかしがりながら唯は階段を下りて行った。
唯がいなくなったこの部屋は机の上の散らかりようなど生活の跡を除けば机・ベッド・タンスの置き位置、ぬいぐるみも変わっていなかった。
去年の唯の誕生日にシュッピングモールにある店で買ったぬいぐるみ。種類を選んでその場で綿を入れて最後にハート型の心臓を入れる。2人で選んだクマのぬいぐるみだった。
意外と言ったら失礼だけど女の子なんだな、とギュッと抱きしめている姿の唯を見てその時一矢は思った。
走馬灯のように記憶が頭の中を駆け巡らせている中、唯が戻ってきた。手にはジュースを載せたお盆。
テーブルはないので床にお盆を置き、カーペットの上に座った。 互いにジュースを一口飲み、ベッドの枠を背に預けてしばし微睡む。
唯が一矢の方に身体を預けてきた。一矢も頭をのせるように首をかしげ、ひとつの時を過ごそうとした。
「ねぇ」
「ん?」
ただ、それはたった一言で崩れ去る。
「何かあったの?」
「え、何が?」
この時点で一矢は意図に気付いた。しかし答えることはできない。不自然な質問返し。
「だから……今日はとても変だったよ? 何かあったのかなーって」
「え、そう? そう見える?」
「うん。ずっと一緒にいるんだからわからないのがおかしいって」
「そんなことはないとおもうよ?」
不自然すぎるカタコトな日本語に唯の不安が強まった。
一矢は隠し事が得意ではない。サプライズなどは特に不向きだ。というよりまだそんな経験はないのだが。
素直に答えてはくれないと感じて話題を変える唯。
「舞ちゃんっていつ来たの?」
「えーと、一昨日だね。親から聞かれてなくてさ、突然だったんだよ」
「えー、本当に?」
「しかもさ、ただでさえ狭いのに参ったよ」
この失言から先、どこまで落ちてゆくのだろうか。
「……あれ、一矢の家って部屋2つだったよね?」
「え? う、うん。3つじゃないね」
「舞ちゃんの部屋ってどこになるの?」
ちなみに残念なお知らせが2つ。ひとつは唯が一矢の家に行ったことがあるという事。もうひとつは一矢の脳の処理能力が残念だという事。
ここは正直に話すのが正解かそれとも平穏という名のウソか。正直に話すのが楽なのだがそこからの気の利いたフォローというのが必要だ。反対にウソをつくならそこから全てを守るためにウソをつき続けなくてはいけない。
「そうなんだ」
そんな思考回路の途中のタイムオーバー。恋愛ゲームでも選択するのに制限時間がある時代。リアルならなおさらシビアだ。
「舞ちゃんとひとつ部屋の中か。うらやましいな。かわいいもんね」
「いやいやいやいや、絶対そんな事思ってないでしょ。目がうらやましがってないよ。布団だって別だし着替えも見てないし」
「そうだよね、着替えだって見たいもんね」
「あああ、違うよ。ただの例えだろ。唯こそ今日はなんか変だぞ」
「そんなこと、ないよ」
言葉が少し止まった。
形勢逆転。攻撃は最大の防御とばかりに一矢の反撃が始まった。
「普段そんな心配なんかしてこないよな。唯の方に何かあったんじゃないのか?」
「私は……ただ心配になっただけだよ」
「心配?」
すると唯は身体を一矢にあずけると急にしおらしい態度をとった。
「急に舞ちゃんが来てひとつ部屋の中でさ……一矢の様子が変で……このまま私から離れてしまうんじゃないかって思ったら……」
なんだそんなことか。なんてことのない理由にホッと一安心すると、そっと腕をまわして包んだ。
「俺はずっとそばにいるよ」
誰にもやらないさ、最後は心の中で静かに誓った。
「よかった」
その言葉を聞いて唯は嬉しそうに呟いた。