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蝉が鳴いている。まぶしすぎる外はとても暑く、すでに思考回路がどこかやられていてコンビニに行こうという考えも思い浮かばない。
でも何故か一矢は学校の前にいた。決して自らの計画的な行動ではないのだが、ふと気が付くと学校にいた。何故こんなところに来たのだろう。自分でもわからない。いつ家を出たのかもわからない。わざわざ電車に乗ってまでここへ来たのだからそれ相応の理由があるに違いないのだが、思い出せない。
太陽に背部を力強く照らされて、ようやく外にいるのは暑いという明確な意識が生まれ、まずは校舎に入ることにした。
冷暖房はついていないが、風があるために多少は涼しい。持ち帰らなかった上履を履いて教室に向かう――その途中。2階を過ぎた踊り場。タイルはきれいにされ、その隙間にですら血の痕跡はない。
しばらくその場に立っていた一矢は唯が倒れた姿と同じような格好で自分もそこに寝た。何かが変わるような気がして。でも何も変わらなかった。
自分の不甲斐なさに怒りが込み上げてくる。
「やっ!」
そんな声が聞こえ、声のする3階のフロアを見ると一矢を見下ろす顔見知りの顔があった。
「っ……四ノ宮さん?」
四ノ宮若葉。長距離を得意とする陸上部の2年生で一矢の後輩だ。
一矢は慌てて身体を起こし、Tシャツ、短パン姿の彼女を見上げた。
実は若葉も唯が転落した瞬間を見ていた。2人が階段を上がっていくのが見え、自分も2階の教室に戻ろうとして……2人が気になってそのまま階段を追うように上った。あと数段で踊り場というところで何かが飛び込んできた。それが何かを認識する以前に、瞬間的に声が出た。
「……あっ、休憩?」
「はい。飲み物を取りに……その、先輩は……?」
これはまだ誰にも言っていないことだが、若葉は一矢のことが好きだった。あまり一目ぼれをするようなタイプではないが、入学して陸上部に入った時、先輩の顔ぶれをみて何となくだが感じるものがあった。
失礼な話、一矢は格好良いわけではない。陸上部としては中距離を得意とするメンバーの中では3番目、エースでもない。そんな一矢に何を思ったのか若葉自身にもわからない。が、その日から『気になるあいつ』になったのだ。
「あ……これは……」
一矢は若葉が自分を好きなんじゃないかというのを陸上活の友達から聞いた。言われて初めて自分に対する視線が多いように感じた。しかしそれを聞いて特別に行動を起こすことはなかった。
もし相手が男友達や別の奴らなら違う対応をしていたのかもしれない。単にうまい言い訳が浮かばなかったというのもある。口が勝手に動いた。
「何だが唯のことを思い出してさ。ハハハ、こうすれば何かわかるんじゃないかと思って。でも、何もわからなかったけどね。ハハハ」
何を言っているんだ、自分は。
「ちょっぴりなりきるこんな俺もかっこいいかなって、ナルシストみたいな部分もあって。ハハハ」
ダメだな、こりゃ。そう思っても口が止まらない。
「よく過去にとらわれる男はダメ人間っていうじゃん。確かにそうかもしれないけど、やっぱり人間なんだから過去を背負って……生き……て……いか、な……け……」
終わった。
人にそれも一番見られてはいけないであろう相手にこんな姿をさらけ出してしまって、自分は何をしているのだろう。
笑ってくれ。
軽蔑してくれ。
格好悪い先輩だろ。
涙が、鼻水が止まらない。こんな時に塩味を感じなければいけないなんて情けない。
「私じゃだめですか?」
場違いのようにそんな言葉が聞こえた。一発で涙が、鼻水が止まった。
今……何て?
見上げたにじむ視界には確かに自分を見ている若葉の姿。真剣とも穏やかともとれそうな表情のまま若葉は1段ずつ階段を下りる。
「姫島先輩があんなことになって私も悲しいです。でも先輩の方がもっと悲しいはずです。……先輩の気が少しでも落ち着くなら、私を自由に使ってください」
若葉が陸上部で一矢と会った時にはすでに2人は付き合っていた。その事は後に知ることになったので、もちろん告白はしていない。想いが途切れることなくずっと片想いのままだった。
一矢はこの子は何を言っているんだ、とは不思議と思わなかった。唯という大きすぎる存在をなくすことが無理なら、自分が1枚のオブラートになってでも包んであげようと彼女は言っている。
「それって……」
「……先輩のことが好きなんです」
彼女は自分の事が好きだ。それはわかる。その彼女の好きな相手が地の底まで落ちているのを自分の身体を使ってでも助けたい、救い上げたいと申し出ているのだ。この提案に対する解答はいかがなものか。
濁そうか。そう思ったのだが、彼女はここまではっきりと言ってきている。となると自分もはっきりとした答えを態度で示さなければ。
一矢は自然と若葉を抱いていた。
「あ……」
瞬間、若葉から声が漏れた。人を抱くという行為を行ったのはどれくらいぶりだろうか。一矢はこの時ばかりは間違いではなかったと思った。
時間が経つのを忘れていた。次に自分が何をするべきなのかも考えなかった。ただこのままでいたい、それだけが勝っていた。
「んーーっ……ぃ」
「?」
繋がる過去の記憶。彼女の部屋で2人抱き合ったあの感じと似ている。思えば昔もこんなことをしていた。ちょうど後ろで手が組める体躯、指先で感じる皮膚の弾力、胸に伝わる温かさ、頬に伝わる髪の艶やかさ、鼻に薫るフェロモン、そして右の首筋にあるほくろ……がない。
「唯?」
であるはずがなかった。いまここにいるのは一矢と若葉の2人だけなのだから。
「先輩?」
驚いたのは若葉だ。身をささげて抱かれたと思えば出てくる言葉が別の女だ。代わりでも、という気持ちで出したのだから相手の受け止め方によって扱いは異なる。少し、いやかなり自意識過剰だったのか。
一矢だってなぜこの名前が出てきたのか、自分でも疑問だった。いつの間にか抱いていたものが抱いている間に自分の中で変わっていたのだから。結局変わっていないのは自分の頭の中だけなのか。
互いの素の顔が出た。下手ににやけているが、もう引き返せない。先に引いたのはやはり一矢だった。
「お、俺……今……」
血の気が引いているのが見てわかる。
何かこの結末の説明をしようとするも適当である言葉が出てこない。というより語るに足らず。今更何を説明しろというのだろう。
一矢はただ距離をとるしかなかった。背中は向けられないが、近づくことができない、近づいていられない。1歩ずつ下がっていくだけだった。
後ずさりする一矢そして若葉は気付いた。一矢の足の数十cm後ろ、そこには2階へと下りる階段があった。
「先輩、危ない!」
飛び出す若葉。一矢は言葉の意味を理解できる状態ではなかった。こちらに向かって走ってくる若葉に触れるのが怖くてさらに身体を引いた。
「あっ!」
「先輩っ!」
若葉の手がかろうじて一矢の腕を掴んだ。しかしその時には若葉の両足が宙を舞っていた。
スローモーションのように、しかし遮るものは何もなく2人は階段を落ちていった。