無題3
時代は大きくうねりを上げ、二百六十年余り続いた徳川の世は終焉を迎えた。
江戸は東京と名を変え、明治という新しい時代が幕を開けた。
文明開化の荒々しい足音は、人々の暮らしから街の景色までを劇的に書き換えていった。煉瓦造りの洋館が建ち並び、通りには一定の間隔で瓦斯燈が設置される。人々が恐れ、そして大泥棒・土岐半次郎が誰よりも深く愛した漆黒の闇夜は、煌々とした人工の光によって次々と姿を消していった。
さらに、新政府によって近代的な警察制度が敷かれ、洋風の制服を着た邏卒たちが昼夜を問わず街を厳重に巡回するようになった。
それは、闇夜の死角を味方につけて宙に舞う奇術師にとって、活躍の舞台が永久に失われたことを意味していた。
だが、半次郎が泥棒稼業から足を洗う決意をしたのは、決して新政府の監視の目が厳しくなり捕まることを恐れたからでも、老いて身のこなしが鈍ったからでもなかった。
彼はただ、時代の移り変わりと共に、人々が抱く『モノへの価値観』と、新しい時代を『生きる熱量』が大きく変化していくのを、モノの本質を見抜く曇りなき眼差しで深く見つめていたのだ。
髷を切り落とし、散切り頭で、不慣れな洋装に身を包みながらも、この未知の御代を必死に、そして力強く生き抜こうとする市井の人々。もはや権力者の蔵から至宝を盗み出し、日陰で震える弱者に分け与えるといった前時代的な義賊の振る舞いは、自らの足で歩き始めたこの新しい国家の民にはそぐわない。
半次郎は、自らの業に一切の未練を残すことなく、ひとりの奇術師としての華麗な幕を潔く下ろすことを決めた。
裏の稼業から完全に身を引き、表の世界で真っ当に生きるためには、どうしても元手となる金が要る。
しかし、生涯をかけて富裕層や悪徳商人から盗み出した莫大な金品のすべてを、身寄りのない子供や貧しい長屋の住人たちに惜しみなく配り歩いていた半次郎の手元には、自身の蓄えなど一文たりとも残っていなかった。
ただ一つ。彼の懐には、ある古ぼけた茶器だけが残されていた。
それは、煌びやかな金銀の蒔絵が施された大名道具でもなければ、由緒正しい銘を持つ名物でもない。かつて彼が忍び込んだある大店の蔵の片隅で、埃を被り、誰にも見向きもされていなかった名もなき陶工の作であった。
だが、半次郎の真贋を見極める眼だけは、その茶器に宿る、土と炎が偶然に織りなした素朴で力強い景色と、一切の虚飾を削ぎ落とした、無駄のない美しさと侘び寂びの真髄を、確かに見出していたのだ。
彼はその茶器を、自分の魂の鑑として、ただ一人密かに愛蔵していたのである。
半次郎は、新政府の重鎮たちを顧客に持つ、東京でも随一と謳われた気位の高い古美術商の暖簾をくぐった。
そして、粗末な木箱に入ったその茶器を無造作に差し出した。
初めは薄汚れた着流し姿の半次郎を鼻であしらい、小間使いに追い返させようとした主であったが、しぶしぶその茶器を一目見た瞬間、雷に打たれたように言葉を失った。本物の審美眼を持つ者であれば、その茶器が放つ底知れない静謐さと圧倒的な美しさに、ただ平伏せざるを得なかったのだ。
「これほどの逸品……一体どこで手に入れられた」
手を震わせ、上擦った声で尋ねる主に、半次郎はただ涼やかに微笑んでみせた。
結果として、その名もなき茶器は、主の持ち得る有り金すべてという、当時の価値にして途方もない額の金子へと姿を変えた。
大泥棒・土岐半次郎の類まれな審美眼が、盗みという手段ではなく、初めて正当な商取引によって莫大な富を生み出した瞬間であった。
半次郎はその大金を手にして、立派な豪邸を建てることも、悠々自適の隠居生活を送ることもしなかった。
彼が向かったのは、華やかな銀座の煉瓦街などではない。新しい東京の目覚ましい発展の波から完全に取り残され、大火や戦乱で焼け出された貧しい人々が吹き溜まりのように集まる、泥濘だらけの下町であった。
半次郎は、茶器を売った金のすべてをつぎ込み、その下町一帯の広大な土地を買い取った。そして、風雨をしのげる丈夫な長屋をいくつも建て、行く当てのない者や、身寄りのない子供たちを抱える貧しい庶民たちに、破格の安さで住まいを提供したのである。
盗業を捨て去っても、彼の根底にある弱き者への温かな眼差しは、何一つ変わってはいなかった。
彼は『奪う者』から、人々が根を下ろし、生きていくための場所を『守る者』へと、自らの在り方を見事に昇華させたのだ。
やがて、その下町一帯を束ねる地主として、公の戸籍に名を連ねる日がやってきた。
大泥棒・土岐半次郎の悪名を、表舞台で名乗るわけにはいかない。
彼は新しい時代を生きる自らの名を決める際、かつての己のルーツである『土岐』の音だけを密かに残す。
そして、移りゆく刻の流れの中で、激動の時代に迷える人々が流れ着き、一息つける安らぎの洲となるようにと願いを込め、新しい名字を役所に届け出た。
時洲。
これが、東京の下町に深く根を下ろすことになる、時洲家の誕生の瞬間であった。
闇夜を駆け抜け、モノの声と人々の想いを見つめ続けた大泥棒の血脈は、こうして歴史の表舞台へと静かに、そして確かな温もりを持って、後世へと受け継がれていったのである。




