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【睡眠用BGM】夜の波音

作者: 秦江湖
掲載日:2026/07/24

重度の不眠症に悩まされていた私がたどり着いたのは、YouTubeや音源配信サイトで聴ける「環境音」だった。


雨の音、焚き火の音、そして――夜の海の波音。


ノイズキャンセリング機能のついた密閉型イヤホンを両耳に装着し、音量を小さく設定して目を閉じる。


鼓膜を揺らす、一定の周期を持った波の音。


――ザザァ……。

――ざざざぁ……。


波が寄せては、引いていく。


ただそれだけの単純な音の繰り返しが、荒んだ私の脳を優しく麻痺させてくれた。


その音源は、ある音声投稿サイトで見つけたものだった。


タイトルは『【作業・睡眠用】静かな夜の波音 8時間(ハイレゾ録音)』


投稿者の概要欄には、こうだけ書かれていた。


『某県の、地図にも載っていない誰もいない断崖の下で録音しました。引き波の音に耳を澄ませてみてください』


使い始めて三日目の夜のことだった。


深夜二時。暗闇の自室でベッドに横たわり、いつものように波音を聴きながら微睡んでいた時だ。


波が引き、砂利や小石が「ざざざ……」と擦れ合う音の奥に、何か異物のような音が混ざっていることに気づいた。


――ザザァ……(寄せる音)

――ざ……ざ……た……す……け……て……(引く音)


私は目を開けた。

今、何か聞こえたか?


イヤホンの音量を少しだけ上げる。

静寂の中、再び波が打ち寄せ、そして引いていく。


――ザザァ……。

――ざ……ざ……ゆ……う……き……さん……。


心臓がドクンと跳ね跳びそうになった。


聞き間違いではない。かすれた、濡れた喉から絞り出されるような細い声で、はっきりと私の名前――「優樹ゆうき」と呼んでいた。


「な、なんだこれ……」


音の錯覚(パレイドリア現象)だろうか。


幻聴……錯覚。


錯覚だ。


自分にそう言い聞かせ、イヤホンを外そうとした。


だが、私の指がイヤホンに触れるより早く、次の波が寄せてきた。


――ザザァ……ッ!


今度の波音は、今までよりも明らかに重く、湿っていた。


まるで水滴の塊ではなく、重なり合った粘つきのある肉体が、直接耳の奥へぶちぶたれたかのような湿音。


そして、引き波の音。


――ざざざ……優樹さん……寒いの……助けて……。


血が引いた。


その声は、三年前の夏、この近くの海で水難事故に遭い、遺体が見つかっていない私の従姉妹の声だった。



恐怖で身体が固まり、動かなくなった。


スマホの画面をタップして音声を止めようとするが、震える指が滑ってうまく操作できない。


イヤホンの奥から、従姉妹の声が途切れ途切れに響き続ける。


「優樹さん……ここにいるよ……海の底はね、すごく暗くて……冷たいの……」


「嘘だ……こんなの、録音音源だぞ……なんで俺の名前を……」


声は従姉妹のものだけにとどまらなかった。


引き波のざざざ……に合わせて、第二、第三の声が重なり始める。


「上がらせて……」

「足がつかないの……」

「お母さん……」

「苦しい……呼吸ができない……」

「たすけてえ……たすけてえ」


男の声、女の声、老人の声、幼い子供の声。


何十、何百という人間の声が、重なり合い、波の周期に合わせてうごめいている。


その時、私は理解してしまったのだ。

この音源の「波音」の正体を。


あれは、水滴が砂浜を洗う音などではなかった。


海に消えた者たち、足のつかない暗闇の底で彷徨う無数の死者たちが、生者の陸地に向かって這い上がろうとし、そして力尽きて深海へと引きずり戻される時の――肉体と絶望の擦れ合う音だったのだ。


寄せる波は、死者の群れが打ち寄せられる音。

引く波は、彼らが底へと引き戻されながら、陸の人間を呼ぶ声。


「消さなきゃ……早く、止めなきゃ……!」


私は必死でスマホの画面を押し、アプリを強制終了した。


ブツン、と音源が途切れる。


イヤホンから音が消え、室内には再び完璧な静寂が戻ってきた。


「ハァ……ハァ……っ!」


私は両耳からイヤホンをむしり取り、ベッドの上に放り投げた。


冷や汗でパジャマが肌に張り付いている。


やっぱりただの悪夢だ、精神的に疲れていたんだ。そう自分を納得させようと、荒い呼吸を整えた。


その時だった。


鼻腔を突いたのは、生臭い、濃厚な「磯の香り」だった。


ここは海から何キロも離れた、内陸のマンションの3階だ。潮風など届くはずがない。


なのに、部屋の中に潮の匂いが満ちている。


なんで?なんでだ?


恐る恐る床を見下ろした。


フローリングの上に、月光を受けて鈍く光る「濡れた砂」が、廊下からベッドの足元に向かって点々と続いていた。


――ザザァ……。


音が聞こえた。


イヤホンからではない。


自室のドアの向こう、リビングの暗闇から、湿った波音が聞こえてくる。


――ざざざ……優樹さん……開けて……。


ドアの隙間から、冷たくて黒い海水が、静かに部屋の中へと染み出し始めていた。


あの音源を聞き、波音の奥にある「声」を認識してしまった瞬間、私の部屋は、暗い海と繋がってしまったのか?


違う違う違う。


錯覚なんだ。


足元に押し寄せる冷たい水。


引き波の音に合わせて、私の足首に、何本もの冷たくぶよぶよした指が絡みつく感触。


これも……この冷たさも、感触も、これも錯覚なのか?




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