【Phase6】
「一倉! 有紗が帰ってないんだ」
『……彰洋。俺はお前の人生の秘書じゃねぇんだよ。いま何時だと思ってんだ、タコ!』
寝ているところを叩き起こされたからか、スマートフォン越しに聞こえるのは普段にも増して荒ぶっている一倉の声。
彼は無趣味を公言し、敢えていうなら睡眠が趣味だとさえ口にしていたほどだ。遅くなる業務等がなければ、日付が変わる前に眠るのが習慣なのだ。
そして、沈着冷静な「秘書の顔」とは違い、素の彼は結構『俺様』で口が悪い。
「勇吾先輩! 頼むから助けて」
小学校からずっと一緒だった、一学年上の先輩。一倉の父が真瀬の父の片腕的存在だったため、幼い頃から付き合いがあった。
父同士も一応「経営者と参謀」ではあったが、実際には上下関係は明確ではなかった。ましてや子世代にまで引き継がれるものでもない。
真瀬にとって一倉は、心の深い部分では今も「先輩」意識が抜けていないのかもしれなかった。
『家にも居ないってことか?』
「夕方、会社出てすぐアパート行ったけど電気もついてなかった。玄関からも裏回ってみても人の気配がしないんだ」
泣きついた真瀬に、まだ声には不機嫌が混じるものの彼は真剣に対応してくれる気にはなったらしい。
「さっきまで待ってたのに、帰って来なかったし」
『……お前、ストーカー染みてるぞ。何時間居たんだよ。まだ引っ越しはしてないのは確かなんだよな? ……まあ、当日に動けるわけないか』
一倉が明らかに引きながら口にするのに、真瀬はとりあえず彼の問いに答えた。
「あ、あ、たぶん。キッチンの窓のカーテンも、ベランダの荷物かなんかもそのままだったから」
初めて訪れたので変更の有無は判別できないが、転居したならそのまま置いておくわけがない。
『とにかく、彼女はまだ十八歳だ。ひとりじゃ部屋の契約もできないだろう。……法的にはともかく、普通は怪しまれる。まともな業者ならな』
十八歳。契約。記憶に何か引っ掛かる。
「部屋を借りるのだけ兄に――」
初めて会った日。駅前のカフェで、有紗と交わした会話が不意に脳裏に蘇った。
「兄!」
『急に大声出すんじゃねえ! ──そういえば彼女、兄がいたな』
形だけとはいえ、当然有紗にも履歴書は提出してもらっていた。家を訪ねるため、とにかく住所だけ確認したのだ。
『とにかく明日だ。お前ももう休め。明日、というかもう今日だけど、会社行ってからいろいろ考えよう』
「……わかった」
確かに、今自分が闇雲に走り回って解決することなど何もない。
一倉に承諾を返し、真瀬は通話を終えた。
高校や大学時代には何人かの女性と付き合ったが、すべて短期間で終わりを迎えている。
真瀬は相手にそこまで大層なことを求めたことなどはない。どの女にも。ただ「察して」という言葉がとにかく苦手だった。願いなら可能な限り叶えてやりたい。はっきり要求されたなら、いつでも何でも。
人間なのだから。言葉があるのだから。明確に示せというのはそこまで傲慢な思考だろうか。
「あんたはお人形遊びでもしてるのがお似合いよ」
別れ際にそう言い放った最後の『彼女』。真瀬に合う、人間の女などいないと。
「わたしは彰洋を操り人形みたいに思い通りにしたかったんじゃない! 想い合いたかったの。気持ちなんかどうでもいいんなら『お人形』でいいでしょ、って言ってんのよ! アクリルガラスみたいなあんたはそれで十分なんじゃない?」
恋人を都合のいい『人形』のように扱おうとしたのはどちらなのだ、という真瀬の思いを察したのか、彼女が吐き捨てた。
人形遊びの真意は、「思い通りに動く」ではなく「心を持たない」である、らしい。
アクリルガラスは、冷たく傷つかないという比喩だろう。ガラスですらない紛い物、という意味も含まれているかもしれない。
人間味がないという嫌味を込めて。
真瀬にとっては、即座にこんな言い回しが浮かぶ彼女の頭の回転の良ささえもが煩わしかった。
いつだったか、彼女が好きでコレクションしていた精密なガラス細工を「そんなのどうせすぐ壊れちゃうのに」と告げてしまった真瀬への意趣返しか。
それの何が悪かったのかも理解できない。実際にいくつも欠けた、割れたと嘆いていた彼女に本当のことを言っただけだ。
当時はそこまで思い至らなかったものの、彼女は容姿が優れているのみならず、明晰な頭脳や人心を慮る力をも併せ持つ稀有な「人材」だった。
大学のミスコンテストも、本来の彼女はむしろ敬遠しそうな催しだ。単に「夢に近づくための手段」と割り切ってエントリーしたのは明白だった。
そして『準ミス』の称号を得るという結果も出している。
恋愛ではなく私的な感情の介在しないビジネスパートナーとしてなら、それこそ「良い関係」が築けたのかもしれない、と今にして思う。
遅きに失したなどというものではない。
大学を卒業してもう十年以上、彼女は地方テレビ局のアナウンサーとして、現在も華やかかつ堅実にキャリアを積んでいるそうだ。
しかし真瀬は、「確かに心がなければ読む必要はないな」と感情を露わにする彼女を前に冷静に考えていた。その時点で人間の女は無理なのかもしれない、とそれ以降は特別な相手を作ったことはなかった。
仕事に置き換えてみればどうだ? 同じ失敗を繰り返すのは、結局本人に原因があることが多いのではないか。
有紗が逃げたのも、真瀬に察する力が、……というよりその必要性そのものの理解が足りなかったから?
朝、真瀬はスマートフォンの着信音に起こされた。
寝惚け眼で確かめたディスプレイには「有紗」の文字。一瞬で目が覚める。
「はい!」
『あ、あの私――』
確かに有紗の声だ。
「有紗、今どこ? 無事なの?」
矢継ぎ早に問い掛けてしまい、このままでは彼女が話せない、と真瀬はようやく気付いて黙る。
『すみません、勝手なことをしてご迷惑をお掛けして、あの』
申し訳なさそうな有紗の声。しかし、そんなことはどうでもいいのだ。今何よりも知りたいのは。
「謝らなくていい。僕は全然怒ってなんかいないから。それより有紗、家にも帰ってないよね? いったいどこに居るの?」
『あの、どこかは言えません、けど。ちゃんと安全な場所です。だから心配なさらないでください。……すみません、本当に』
「有紗、──」
話し終えると有紗は真瀬の呼び掛けに応えることもなく、唐突に通話は途切れた。
「おはようございます、社長」
出勤した真瀬を、一倉が涼しい顔で社長室で待ち構えている。
「……おはよう、夜中に、あの――」
「それはもう済んだ話です。で、北原さんの件ですがまず間違いなくお兄さんには連絡している筈です。……万が一、事件に巻き込まれた等でなければ」
彼の話を聞きながら、肝心のことを連絡していなかったと気づいた。
「あ、それなんだけど。今朝、有紗から電話あったんだ。大丈夫だから、って」
「そういうことは、すぐに私にも知らせてくださいよ!」
珍しく、あからさまに怒りを含んだ一倉の声。
「悪い! えっと、なんかホッとしちゃって、つい」
「いえ、もう結構です。とりあえず最悪の事態は免れましたね。それで、どうなさいますか? このまま待たれるのも一案ですが」
一倉の問い掛けに、真瀬は内心の困惑を吐露した。
「……どうすればいい? もう、僕にはわからないんだ。有紗が僕が嫌で逃げたなら、追い掛けない方がいいだろうし」
情けない弱音を吐く真瀬を、彼は眼鏡越しの感情の窺えない目で見つめていた。
「社長。北原さんの気持ちは私にもわかりかねます。ですが彼女は、突然職場放棄するような無責任な方ではないと私は認識しております」
「それは僕も――」
「ではなぜ、彼女は突然いなくなったんでしょう? ……昨日、社長が何かなさったとか、そういった事実はないんですね?」
「ない! 絶対、何も、ない!」
実際に疑っているわけではなさそうだが、淡々と訊かれとりあえず全力で否定する。
「『人形』なんて、ホントは嫌だったのかな。……嫌、だよなぁ」
脳内の不安がそのまま口から漏れてしまうが、もう止められない。
「でも、最初からその条件のお仕事ですから。どうしても嫌なら断ればいいことでは?」
一倉が言うのは一般的には正論だ。
しかしあのときの真瀬と有紗には、――微妙ではあるが確実に心理的な上下関係が存在し、影響したのは間違いないと思っている。そもそも、それを利用した自覚があるのだ。
何よりも、有紗は経済的に困っていた。真瀬の出す金が目的だったのも確かだろう。
「……どうしても社長が彼女の居場所を突き止めたいと仰るのなら、方法はありますし私は止めません」
彼の言葉の意味は真瀬にも当然わかっている。調査を頼めば、見つかる可能性はそれほど低くはないのではないか。
「探すことはしない。ただ――」
いったん言葉を切って、再度考える。
「ただ、有紗のこと知りたい。調べたい。……僕は、おかしいんだろうか?」
「いいえ。それは決して特別な感情ではありません」
真瀬の苦悩を、一倉は即座に否定してくれた。
「知りたいと思われるのでしたら、調べられたら如何ですか? 北原さんの現在ではなく、過去を」
頼りになる秘書室長に背を押され、真瀬はスマートフォンを手に取りアドレス帳を呼び出す。
「あ、所長? また頼みたいことができたんです。誰か寄越していただけますか? ……社員、の過去を、調べて欲しいんです」
『承知しました。吉野でもいいですか?』
「はい。問題ありません」
馴染みの調査事務所に依頼して、有紗について調べることになった。
社を訪ねてきた吉野と打ち合わせを行う。真瀬が知る限りの有紗の情報と、調査で知りたい内容について。
もう後には引けない。有紗に伝わったら、この事実だけで毛嫌いされること決定だろう。それでも、どうしても知りたかった。
彼女のことが。
◇ ◇ ◇
「うーん。正直言って、真瀬さんから聞いてた話とちょっと印象が違いましたね。……真瀬さんの話が間違ってたとかじゃなく」
思ったよりも早く、その日のうちに真瀬の元を訪ねてきた吉野を迎える。
正式な報告書を上げる前に、口頭でいいからすぐに聞きたい、と頼んであったのだ。
「最初の情報の限りでは俺、有紗さんの実家は金なくて、親に苛められてこき使われて逃げ出したと思ってたんですよ。でも実際には、母子家庭ですけど母親は近くの大企業の工場の現地採用社員なんです。まあ裕福とは言えなくても、まず生活に困ることはないんじゃないかって感じでした」
「そうなんだ。……母子家庭」
真瀬の相槌に吉野が答えた。
「はい。これは調べてすぐわかったんですが、父親は十五年前に車の自損事故で亡くなってました。ハンドル操作を誤ったんじゃないかって結論付けられたようです。任意保険が切れてて、自賠責は自損じゃ死亡でも一切出ません。他人を巻き込まなかったのがせめてもの、って言うと不謹慎ですけどね。その後の家計は母親が一人で支えてたようです」
一息ついて、彼はさらに言葉を継ぐ。
「有紗さんは三兄妹の末っ子で、一番上の兄の蓮が二十五歳、下の兄の丈が二十三歳です。で、長男である蓮は大学卒業してからも家に居て、下の二人は高卒後すぐに家出てるんですよね。この蓮の結婚の聞き合わせ装って、近所で話聞いたんですけど」
どうやって調べるのかなど真瀬には予想もつかなかったが、なるほどそういう搦め手もあるわけか、と感心する。
やはりプロはプロだ。当然だが。
「調査員に対する感覚って人それぞれだし、胡散臭そうに見て口の重い人も、ペラペラ喋ってくれる人もいろいろなんですよ。警戒されて当然の仕事なんで、そこをどうするかが腕の見せ所でもありますね。──でも今回に限っては、全員の意見が一致してました。つまり『あの長男は止めとけ!』です」
「なんかよっぽど問題あるの? ……もしかして、有紗のこともその兄が原因だったりする?」
まさか! と最悪の想像に浮足立った真瀬の言を、吉野は冷静に否定した。
「いえ。ご近所さんも、ご本人を悪く言う人はまあいませんでした。別に褒めもしませんけど。ただ、『あの息子と結婚だけは止めた方がいい』って口を揃えて仰るんですよね」
もうあまり余計な口は挟まないでおこう、と真瀬は聞き役に徹することにする。
「真瀬さんもご存じなかったみたいですが、有紗さんの父親の開さんは所謂ハーフっていうか……。開さんの父、つまり有紗さんの祖父に当たる人物がアメリカ人だったそうです」
最初に『人形』の話をした時の「外国ルーツ」という印象通り、有紗はクォーターになるということか。
「軍属で、本国に家族がいたって開さん本人に聞いた、って方がいました」
「……現地妻、ってやつ、か」
「おそらくは。国に帰るときに開と母を置いて行ったそうですよ。実はそのことも有紗さんの事情に影響してるんじゃないかな、と」
「どういう?」
「一番語ってくださった奥様の話なんですが……」
そう切り出して、吉野は情報源との会話を再現してくれた。
◆ ◆ ◆
「まーまー。結婚で調査入れるようなお家のお嬢さんが北原さんの息子さんと、ねぇ。やっぱりお金だか名前だかがあるお家ってのは、嗅ぎ分ける力があるのかしら。あなた、悪いこと言わないからそのお家や親御さんのためにも、止めた方がいいって報告してあげなさいよ」
調査を始めてから彼女に限った論調ではなかったが、いきなり不穏なことを口にされて吉野はとりあえず問い返す。
「……何か素行に問題があるとかそういったお話でしょうか? いえ、お宅さまから伺ったとは何があっても漏らしませんのでご安心を──」
調査に関わる決まり文句を述べる吉野を遠慮なく遮って、彼女は素っ気なく言葉を被せて来た。
「ここらじゃみんな知ってるから今更よ。蓮くんはね、まあ……、別に悪い子じゃないと思うわ」
「では、何でしょう」
「北原さんとこはお母さんがちょっとねぇ。あなたも知ってるかもしれないけど、あのお宅にはお子さんが三人居るのよ。蓮くんの下に弟さんと妹さん」
「はい、存じております」
「そりゃそうよね。とにかく昔っから、お母さんの綾子さんは蓮くんだけが特別なの。亡くなったお父さんが半分アメリカ人だったんだけど、丈くんと有紗ちゃん、あ、蓮くんの弟と妹ね。あの二人はお父さん似なのよ。日本人離れした美形兄妹で有名だったわ、この辺では。蓮くんはお母さん似で、外国の血が入ってるようには見えないもの」
「お父様のご事情については、多少なりとも得ております」
こちらからどう話を振ろうかと考えるまでもなく、有紗の名前が出て吉野は内心高揚する。無論、表には一切出さない。
「少なくとも外からは、お父さんの方は三人を分け隔てしてたようには感じなかったわ。でも綾子さんは、小さい頃から蓮くんと下の二人で露骨に差をつけてて……。ちょっとどうかと思ってたけど、他人には何もできないじゃない? 明らかに虐待ってんならまだしも、そういうんじゃないし」
ハーフの父親。父に似た外国風の顔立ちの二人の子ども。そして、同じくクォーターなのに母に似た日本人的な外見の上の息子。
隔世遺伝もあるし、似ていないきょうだいなど珍しくもない。しかし、有紗の家庭では何か違ったのか?
「差、ですか」
「綾子さんも結構美人だし、蓮くんも格好いい方だと思うわ。そりゃまあ、三兄妹で明らかに見た目に違いがあれば気にするのもわからなくはないわよ?」
「ええ──」
「失礼なのは承知だけど蓮くんが不憫だったっていうのか、……そういうのがあったんだとはなんとなくわかる気がするの。同じ親として。でもそれはお子さんたちには責任なんかないじゃない?」
単なるゴシップ好きの類ではなく、この夫人が真に有紗の家庭を気に留めていたのだろうというのはわかる。
「特に有紗ちゃんなんて、保育園のときからいっつもお兄ちゃんたちのお下がり着せられててねぇ。……古いしサイズも合ってなかったけど、洗濯はしてて一応汚れとかはないのよ。まあ背も高くてきれいな子だから、何でも似合うといえば似合ってたけど」
何とか蓮以外、特に有紗に話題を持って行こうとした吉野の思惑にうまく乗ってもらえて、気持ちだけ拳を握った。
「うちは男ばっかなんだけど、女の子のいるお宅が見かねてお下がり持ってったりしてたくらい。別に受け取って着せるのは平気なのよね。それを狙ってるわけでもホントにそこまでお金ないわけでもなくて、単に蓮くん以外どうでもいいって感じなの。だってあの人、うちの旦那とそこまで収入変わんないはずよ。うちのは一応班長とはいえ、同じ工員だし」
母親は、自分に似た息子だけを溺愛した。あとの二人には関心がなかった、らしい。得た情報を一つずつ整理して行く。
「そうなんですね、で──」
勢いよく話す相手がひと息つくタイミングを見計らい、辛うじて相槌を打つくらいしか吉野にできることはなかった。
「蓮くんのすぐ下の丈くんも高校卒業したら出てって、有紗ちゃんもいつの間にかいなくなってたから。こう言っちゃあなんだけど、本当によかったと思うわ。今は蓮くんが隣の市の会社に勤めててお母さんと二人暮らしだけど、そこに奥さんが入ったら、というより普通結婚したら出てくでしょ? どっちにしても、考えるのも恐ろしいわね。あなた、止める方向で報告しなさいよ、絶対!」
◆ ◆ ◆
立て板に水の如く一方的に話し続けた彼女は、最初と同じ言葉で話を締め括ったのだそうだ。
「真瀬さんが有紗さんに『親に就職しろって言われた』みたいなこと聞いたって話で、娘を働かせて稼ぎ取り上げようとしてるのかと思ってたんですよ、俺。金ヅル的な。でも単に長男以外に金掛けたくないだけっていうか、大学行かせる気はないけど出てっても探す気もないって感じでした」
「……もしかしたら、有紗が『東京で就職したい』って言ってたら、すんなり『勝手にしろ』だったかもしれないってこと、かな?」
真瀬の思い付きに、吉野は少し難しい表情を作った。
「うーん、それはどうでしょうか。これは俺の超個人的経験則なんですけど、親の反応先読みし過ぎて言いたいこと飲み込んじゃうことってあるんで。母親の方も彼女に金入れさせるのはまだしも、家事なんかはさせようと考えてて、有紗さんにもそれが伝わって黙っちゃったのかもしれないですしね。……つまり、そもそも『東京へ行きたい』とか自分の希望を口に出せる家族関係じゃなかったんじゃないか、って」
「成程、――」
意図せず吉野の過去に触れてしまった気がする……。
真瀬は対応に困った末、結局素知らぬ顔で流すことを選んだ。
吉野の、若さと他人に警戒心を抱かせない人好きのする明るい雰囲気が役立った面はあるかもしれない。
しかしここまで簡単に家庭の内情が漏れるのは、どうやらそれだけではなさそうだ。周囲に、「北原家」をよく思わない人間が多いということでもあるのではないか。妬みや恨みではなく、心配や不安、嫌悪の方向で。
「吉野くん、ありがとう。急がせて申し訳なかったね。心付けは厳禁て聞いてるから渡せないけど、所長に賛辞は惜しまないでおくから」
心からの感謝を告げた真瀬に、彼は満面の笑みを見せた。
「あ、それが何より嬉しいです! そういう積み重ねで、任される案件もステップアップできるんで。今回の件も、真瀬さんが前回俺のことすげえ褒めてくれたからって所長に聞きました」
「……こんな地味な調査、つまらなかったよね、かえって悪かったかな」
彼の喜びように申し訳ない気分で告げた真瀬に、吉野は力説して来る。
「とんでもない! いや、確かに面白いとは言えないかもしれませんよ? つか、ウチの事務所でそんな『派手で面白い』案件なんてどれだけあるのかもわかんないです。でも俺はこうやって『依頼人』の信頼を勝ち取っていくのが、一人前の調査員になるには絶対必要だと思ってるんで!」
「吉野くんは絶対いい調査員になるよ。というか、今でも僕は安心して頼める調査員だと思ってるよ。……無駄かもしれないけど、所長に『特別ボーナス出してやってください』って頼んどく。その分、調査費に上乗せで払うから」
改めて礼を言い吉野を送り出した後、真瀬はその内容について考えている。
正直、金の問題だと思っていた。吉野に説明した際も客観的になるよう心掛けたものの、そうした真瀬の恣意が入って彼に先入観を与えてしまったのは否めない。
それに引き摺られずフラットな目を持てるのが、調査員としての吉野の強みだと改めて思う。
親に、……父の死後はたった一人の親である母に顧みられず育った。おそらく家庭での有紗の味方は次兄だけだ。だからこそ、家を出て真っ先に頼ったのが彼だった。
辛かったのだろうか。寂しかったのか? わからない自分がもどかしく、情けなかった。
幼い有紗の泣き顔は、それでも浮かばない。実態はともかく、彼女が感情を露わにする姿を思い描けないことに今更気づいた。静かな微笑み、控えめな喜び。笑顔さえ慎ましい少女。
常に自分を抑えて生きて来たのか。まだ十八なのに。誰もが羨むほどの美しさを誇ってもいい、今が一番我儘で弾けていい年頃なのに。あの子、は。
有紗が話さなかったこと。おそらくは思い出したくもないだろうことを、強引に暴いてしまった。
――こんなことをする権利が、真瀬にあるのだろうか。