【Phase5】
所用を済ませて社長室に入ろうとしたところを、一倉に呼び止められた。
子どもの頃から親しくしている阿部、──『人形』を持ちたいという切っ掛けになった彼が結婚するらしいと聞かされたのだ。
ただ実際にそうなれば、間違いなく真瀬は招待客として数えられている筈だ。つまり、阿部本人から必ず知らせが来る。一倉もそれは承知だろう。
阿部の件は単なる話の入りに過ぎず、真瀬は本題の仕事のためにそのまま一倉と秘書室に向かい、ようやく社長室に戻って来た。
「有紗……?」
真瀬の目に映ったのは、誰も居ない部屋に大きく椅子だけが引かれた有紗のデスク。
普段なら、彼女はこういうことは絶対にしない。真瀬に呼ばれて席を立つ際にも、きちんと椅子は戻すのが常だ。
有紗はあくまでも『人間』なので、手洗いにも立てば食事やお茶で席を外すこともある。それこそ一倉に呼ばれて秘書室へ行くこともあった。
この部屋で、真瀬がひとりになるのもないことではない。けれど。
無性に嫌な胸騒ぎがする。
真瀬はとりあえず自分のデスクに足を運び、固定電話の受話器を上げて一倉の内線を呼び出した。
「社長。あんな若い、しかもごくまともな感覚の子に囲われ者みたいな、――それにも満たないことをさせるのはどうなんですか?」
早口で捲し立てる真瀬の話を聞き終わるなり、一倉は疑問に答えることもせずに苦言を呈して来る。
「……こんなの、長く続ける気なかった。というか、始めたのが間違いだった、のかもな。でも、今更『はい、終わり!』ってわけにはいかないよ。有紗には生活があるんだ。『辞めてもお金だけあげるよ』なんて言われて、平気で受け取るような子じゃないんだから」
見るに見かねてといった調子の彼に、真瀬は言い訳がましい言葉を吐くしかできなかった。
「もし北原さんがこの待遇に胡坐をかくようなタイプなら、きっと私も放っておきましたよ。でも、……彼女は」
一倉の言わんとすることは真瀬にも痛いほどわかる。
そうなのだ。対価を払ってGIVE&TAKEで片付く相手なら、何も気にする必要などなかった。まさしくビジネスだ。
「……あなたは本当に妙なところで不器用な方ですが、少し変わって来たようですね」
溜息とともに吐き出された一倉の台詞の意味は、真瀬にはよく理解できなかった。
◇ ◇ ◇
「ところで、阿部さまがご結婚準備をなさっているという情報が入って来ておりますが」
「お前、ホント地獄耳だよな。……でもさ、そうしたらあの『人形』はどうなるんだ?」
「私は阿部さまの『人形』については初耳ですので、具体的なことは申し上げようがありません。ですが、遊びなら後腐れなく別れていただくために金に糸目はつけられないでしょうね。阿部さまのお家なら、おめでたいお話に一切の瑕疵も無きように当然口止め料も込みで」
喉の渇きに、休憩コーナーのドリンクサーバーへ行こうとドアに向かった有紗は、ノブに手を掛けたところで話し声に気づき動きを止めた。
決して薄くはないドアの向こうで、真瀬と一倉が立ち話をしているらしい。
「昔っからの友達に、『人形』を見せびらかされてさ」
なぜ『人形』など、という話題になったとき、真瀬がそれだけを口にした。
おそらくそれが、いま二人が話していた――。
所詮、遊び相手。
いや「相手」ですらない。要らなくなったら捨ててしまえばいいだけの、お金で黙る単なる道具、……玩具。
実際その通りだ。仕事なのだから。
金をもらって『人形』を演じる。真瀬の気を紛らわせるだけの存在。会話を交わす役さえ果たせない、目に楽しい抜け殻同然の。
彼が飽きたら、有紗は用無しになってすべてが終わる。
経済的に余裕があって普通の遊びに倦んだ人の、少し変わった趣向の手慰みに求められただけだ。
最初からそのつもりで引き受けたのに、何故こんなに動揺しているのかわからない。
もうお金がもらえなくなるから? また生活に困る日々が戻って来るから?
真瀬はきっと、ただ有紗を切り捨てるようなことはしない。「退職金も出す」と告げられていたし、あとのこともきちんと計らってくれるだろう。
それなのに、何故。
そのままどのくらい経ったのだろう。既にドアの向こうは沈黙が広がっている。
有紗はゼンマイ仕掛けのようにデスクに取って返し、乱雑に椅子を引いて足元の棚に置いたバッグだけ掴んで社長室のドアを開ける。
そこにまだ彼らが居る可能性など頭の片隅にもなかった。
――一切何も考えられてはいなかった。
気がつくと、見知らぬ駅のホームだった。
もちろん、通勤沿線の先にある駅なので名前は知っているし、会社の最寄り駅からさほど距離があるわけでもない。
どうやら無意識に電車に乗ってまた降りてしまったらしい。
バッグからのろのろとスマートフォンを取り出すと、いつの間にかもう十九時近い。道理で目の前の人の波が途切れないわけだ。
会社を出たのは終業より一時間以上早かった筈だが、おそらく真っ直ぐ駅まで行き最初に来た電車に飛び乗ったのだろう。
その電車を降りてこのホームのベンチに座って、ここに三時間は居たことになる。
しかし、その間の記憶がどうしても掴めなかった。今まで生きて来て、思い通りに運んだことなど碌にない。今更この程度で狼狽えている自分が不思議でならなかった。
手にしたままだったスマートフォンが震えて、通話着信につい反射的に応えてしまう。
耳に届く声は兄の丈だ。
『有紗? 今お前のアパート行ったら、家の前になんかヘンな奴がいたんだけど。お前、なんかあったのか?』
アパート。変な、奴。
兄の疑問に何と返していいかわからなくなった。
「……丈、く――」
言葉に詰まる有紗に、兄は矢継ぎ早に指示を出して来る。
『有紗、とにかくウチ来い! 今どこだ? は? なんでそんなとこ、まあとにかく迎えに行くからじっとして、てかカフェでも入って待ってろ。いいな?』
畳み掛けてくる兄の言葉に、逆らう気力もなく言いなりに行動していた。行儀が悪いことにも神経が行かないまま、話しながら歩いて改札を出る。
目の前に見えたカフェの名を兄に告げて通話を切ってから店内に入り、飲み物を買って席に着いた。
ぼんやりとスマートフォンを確認すると、真瀬からの着信履歴がいくつも残っている。
仕事中はマナーモードに設定しているため音も鳴らず、気づかず無視した格好になってしまったが、今はむしろよかったと思えた。
今彼と話したらきっと泣いてしまう。『人形』がくだらない感情を曝け出すなんてあってはならない。取り乱して迷惑を掛けて、……終わりが早まるだけだ。
いや、こうして逃げ出した時点でもう終わったも同然か。
たまたま気づいて出てしまったのが兄からの電話で幸運だった、と有紗は完全に電源を落としてスマートフォンをバッグに仕舞う。
「有紗!」
息を切らして店に飛び込んできた丈に、有紗は黙って顔を上げただけだった。己と同じ栗色の髪と瞳の兄。
「どうした? いったい何があったんだよ。……つか、お前何? その、格好」
この服、……『人形』の衣装で兄に会うのは初めてだ。
ドレスと言っても差し支えないものではなく、多少装飾過多でもブラウスとジャンパースカートだったのがせめてもの幸いか。
「就職が決まった」という報告だけで、詳しい内容は何も話していなかった。
正確には「話しようもなかった」のではあるが。
「別に何もない。これ、は仕事の服。……たぶん、アパートで丈くんが見たのも悪い人なんかじゃない。ただ、今はあの部屋には帰れないの」
また俯いてぽつぽつと呟くような有紗に、兄は納得は行かないようだが、とにかく促されるまま彼の家に向かうことになった。
「理恵、しばらく有紗ここに泊めるから」
有紗を連れて戻った丈の自宅の1DK。
玄関を入るなり、迎えに出た妻に言い放つ兄に唖然とする。
「丈くん、私泊まる気なんてない。いったいどこに泊まるって言うのよ。……ごめんなさい、お義姉さん。私すぐ帰りますから」
「有紗ちゃん、ごめんね」
ぐずる息子を抱いてあやしている、疲れ果てた義姉の様子に有紗は申し訳なさに顔も上げられない思いだった。
「何言ってんだ! 行くとこなんかないだろ? 落ち着くまでウチに居ていいから――」
「丈くん、自分が何言ってるかわかってるの? 勇人くん、まだ赤ちゃんなのに」
自分を想いやってくれるのはありがたいが、妻や息子との現実が目に入っていないらしい兄に無性に苛立ちが募る。
「でも家族が困ってるときに」
「ん。丈くんの家族はもう、お義姉さんと勇人くんだけだよ。私は親戚。……そうやって、自分の都合のいい人を『家族』扱いしたがるのってあの人たちとどこが違うの?」
母と、長兄と。
敢えて言葉にはしなかったが、丈にも有紗の言わんとするところは伝わったのだろう。彼は見るからに狼狽し始めた。
「俺、……俺、そんな?」
引き攣った表情でようよう口にした丈に、有紗は容赦なく追い打ちを掛ける。
「うん。もし今のことを勇人くんが覚えてたら、『パパはぼくより有紗が大事なんだ』って思うよ、きっと。私と丈くんもそうじゃなかった? 『自分はどうでもいいんだ』っていつも思わせられてなかった? ……私たちの場合は、同じきょうだいだったけど」
「俺は、……家の中で『家族』は有紗だけだった。お父さんは小さい時に死んで、お母さんは兄貴のことばっかだったし兄貴はお母さんしか見てなかった」
混乱しながら、丈は絞り出すように「過去」を口にする。
「私も同じ。だから、丈くんには自分の家族を一番大切にして欲しい。この『家族』を守れるのは丈ちゃけでしょ? 私は私で、新しい家族作って幸せになれるようにする」
「……でも。実際、行くとこあるのか? どうするんだよ」
有紗の言葉を理解はしたようだが、丈は食い下がって来た。
「以前より手持ち余裕あるし、どこか泊まるよ。ホテルとかいっぱいあるでしょ」
安心させるように軽く答えた有紗に、丈はようやくといった調子で頷いた。
「そうか。……でも、とにかく連絡だけはしろ」
「わかった」
丈の言葉に返事して、義姉に顔を向ける。
「お義姉さん、次はちゃんと連絡してから遊びに来ますね」
確かにほっとしたような表情で、それでも笑ってくれる理恵に精一杯明るく告げて、有紗は兄の家を後にした。
本来は置いて来るべきだったのかもしれないが、そのまま持って来てしまったスマートフォン。
アドレス帳には、丈以外には会社の親しい顔触れだけだ。真瀬と一倉は論外。鈴木は実家暮らしだった筈。
──加賀、は。
「……あの、華子さ、ん。私、あ」
相手が応答したのに合わせて、呼び掛けたものの何を言っていいかわからず言葉に詰まった有紗に、加賀が真剣な声で問うて来た。
『有紗ちゃん? 今、どなたかと一緒に居ますか?』
「え? いえ、一人、です」
『わかりました。今は外ですか?』
「はい。……あの、会社で――」
『お家には帰れますか? 有紗ちゃん。もし無理なら行くところはありますか?』
有紗が言い掛けるのに加賀が被せる。普段の彼女なら決してしない行い。何らかの事情は聞いて、――あるいは察しているのだろう。
「……いいえ」
『もしよろしければ、わたくしのところにいらっしゃいませんか? 一人暮らしのマンションで、お世辞にも広いとは申せませんが、雨露はしのげますので』
もちろん他言は致しません、と重々しく付け足す彼女に、知らず入っていたらしい全身の力が抜ける気がした。
「お、お願い、します。申し訳ありません」
『では、こちらの駅まで来られますか? 無理ならわたくしが迎えに行きます』
「行けます。駅のどこに居ればいいでしょう」
加賀に教えられたマンションの最寄り駅に降り立ち、打ち合わせ通りの改札を出たところに彼女の姿を見つけた。
「華子さん!」
小走りで駆け寄る有紗を、加賀が安心したような笑顔で迎えてくれる。
普段のスーツとはかけ離れたカジュアルなパンツスタイルで、随分目線が低く感じる。足元に目をやると、こちらも初めて見るスニーカーだった。普段は高いヒールで意識することもないが、そういえば加賀は有紗より十五センチ近く背が低かったのだ。
常にきっちりと纏めている髪もいったん解いたらしく、低めのポニーテールといった軽快なイメージだ。
「ああ、有紗ちゃん。では参りましょう。ここからほんの五分ほどですから」
辿り着いた加賀のマンションは、新築には見えないがエントランスまで清掃の行き届いた綺麗な建物だった。
手前がダイニングキッチン、奥にベランダ付きの寝室の1DKの彼女の部屋に通される。
「有紗ちゃん、お夕飯は?」
ダイニングテーブルの椅子を勧められ、腰を下ろした有紗に加賀が尋ねた。
「あ、何も……」
そういえば何も食べてはいなかった。お腹が空いたという感覚もない。
「食べられそうなら何かお出ししましょうか?」
「いえ、すみません。今は何も。……できたら、飲み物をいただけますか?」
せっかくの彼女の申し出を角が立たないように祈りながら断って、喉の渇きを覚えて飲み物を頼んでみる。
「わかりました。コーヒー、紅茶、ほうじ茶、ミネラルウォーター。ジュース類はございませんの。ああ、牛乳はありますのでカフェオレやミルクティーはできますわ」
「あの、もしよければミルクティーをお願いできますか?」
この場合は「なんでもいい」よりはっきり好みを言った方がいいだろう。
「承知しました。少々お待ちくださいね」
笑顔で了承して、加賀はキッチンに立った。
「とりあえずお風呂に入るのは如何でしょう。この部屋ね、バスとトイレが別なんです。狭いですが、きちんと洗い場があるバスルームなんですのよ」
お茶を飲み終えた有紗に、加賀が嬉しそうに切り出した。ありがたく甘えることにしたが、着替えがないことに今更気づく。
「普段着はおそらく身長が違いすぎて無理ですが、わたくし寝る時はゆったりしたものを好みますので、寝間着は何とかお貸しできる気がしますわ」
そのくらいとうにお見通しなのだろう彼女が出してきてくれた、Mサイズのパジャマ。もしかしたら少し丈が短いかもしれないが、着て寝る分には困らないだろう。
「下着は、有紗ちゃんに会う前にコンビニで買っておいたんですの」
「あ、ありがとうございます」
パッケージのままの下着を差し出され、その心配りに礼を言って受け取る。
「他のものは脱いだらすぐ洗えば明日には着られますわ。全自動で乾燥までできますので遠慮はなさらずにね」
風呂上がり。
加賀が洗濯まで引き受けてくれて、とりあえず風呂で軽く手洗いした下着類を申し訳ない思いで委ねる。
「有紗ちゃん。言いたくなければ無理強いはしません。ですが、もし話せることがあったら少しでも聞かせてくださると嬉しいです」
共に入浴も済ませた後、加賀が静かに切り出した台詞。当然だろう。
「その前に、あの。会社、で、今日、何か……?」
恐る恐る訊いた有紗に、加賀が知っていることを説明してくれる。
「四時頃でしたかしら? 社長に呼ばれた室長が戻られて、『北原さんが帰ってしまわれたらしい。もしかしたらご家族に何かあって慌てて駆け付けられたのかもしれないし、どちらにしてももし何か連絡があれば知らせて欲しい』と仰って」
有紗ちゃんが、いきなり黙って帰ってしまうような方ではないのは周知の事実ですから、と加賀は付け足した。
「あの。……少し長くなりますけど、その」
「構いませんよ」
穏やかな彼女の声に覚悟を決める。
「……最初は、『人形』にならないか、って声を掛けられて――」
今日、立ち聞きしてしまった内容の具体的な名には触れないように、それ以外はほぼありのままにだらだらと話した有紗に、加賀は溜息を吐いた。
呆れられたのだろうか、と身構えたのは一瞬で、口を開いた彼女の言葉には責める色も嘲る調子も一切感じない。
「わたくしは社長が『人形』なんて言い出された時に、どなたかの影響なのだろうと感じてはおりました。少なくともわたくしが存じ上げている社長は、そういった遊びを思いつく方だとは思えませんので」
「それは、お友達の――」
「ええ。ですが、単にそれらしい格好をさせるお飾りの『人形』でしたら、他に相応しい女性はいくらでもいらっしゃいます。社長のような方なら、お金で割り切れるお相手を伝手を使って見つけられるでしょう。……有紗ちゃんはそういう役割からは相当に遠いですし、社長はそれがわからない方でもない筈です」
「……? でも、ご、社長、は私を」
真瀬は有紗を選んだ。それだけが事実だ。
「ですからね、――ちょうど『人形』という理由付けがあるところに有紗ちゃんに会ったということでは? 社長ご自身も、最初はそこまで意識なさっておられなかったとは拝察いたしますが」
「ごめんなさい。よく、わからないです」
加賀が微笑みながら語ってくれる内容は、有紗には理解できなかった。やはり自分はあまり頭が良くないのだろう。
「……有紗ちゃんは、社長がお好きだったんですよね? だから、他の方の『人形』のお話を聞いて、それを自分に置き換えて怖くなったんでしょう?」
加賀の問い掛けは、有紗の中にも存在するものだった。
──なるべく目を背けていたかっただけで。
意識して向き合った途端、有紗の奥にある、薄く透明な何かに小さな罅が入っていることに気付く。
罅が少しずつ広がって、ガラスのような弱く脆い心が砕け散る前に守らなければ、と無意識にその原因を遠ざけた。
それがこの、自分らしくもない、後先考えない逃走だったのだろうか。
「好き、……いえあの、私――」
「そして、これはあくまでもわたくしの推測、──推量に過ぎませんが。社長も貴女をお好きなのでは、と感じておりましたわ」
「! そんなわけないです!」
いくら加賀の言葉でも、到底信じられなかった。
同じ空間で二人きりで過ごす中で、真瀬からそういった感情を一度も受け取ったことはない。
何よりも彼のような恵まれた立場の人間が、有紗如きの取るに足りない存在をまともに相手にする筈がない、のだ。
彼の優しさは、どこまでも『上』の者が『下』を労わる感覚でしかないと思っている。
「有紗ちゃん。わたくしの話を致しましょうか。少し聞いていただいても?」
加賀が、唐突に話題を変えて来た。
おそらく彼女には、有紗の考えていることなど手に取るようにわかっていることだろう。
「はい、もちろんです」
「……先日も申しましたが、わたくしは結婚願望はありません。恋愛も、特にしたいとは思っておりません。『絶対しない』ともまた、決めてはおりませんが」
有紗にとって加賀は、美しく聡明で完璧に近い存在とさえ映っていた。「憧れ」の対象にさえならない程に遠かった。
だからこそ、彼女が自分に自信のなさそうな言動を取るたびに、不思議で仕方がない。
しかし反面、「親に掛けられていた言葉の影響で」という彼女に、強烈な親近感のような何かを抱いてしまったのもまた、確かだった。
「わたくしは、このまま独身で仕事に生きる所存です。たとえ周りに『寂しい、惨めな生き方だ』と嘲笑されても、自分の考えを変える気はございません。……もちろん、今後変わる可能性までは完全に否定はしませんし、できませんけれど」
静かに、けれどはっきりと紡がれる台詞。
「笑う人は放っておけばいいと思います。私があの服で皆さんとケーキの会に行った時も、誰一人イヤな顔なんてなさいませんでした」
「そうね、本当にその通りですわ」
精一杯の感想を、彼女は笑って受け取ってくれる。
「有紗ちゃん、大人は斯様に臆病で面倒な生き物ですの。きっと社長もそうなのではないでしょうか。――表に出しているだけが、真実とは限りませんのよ」
まるで謎掛けのような加賀の言葉に、有紗はどう返していいかわからず曖昧に微笑むしかできなかった。
「ねぇ、有紗ちゃん。決めるのは貴女ですが、とりあえず無事でいるということだけ社長にお知らせする気はありませんか?」
いったん話が途切れたあと加賀が優しく切り出した言葉に、有紗はまた対応に迷ってしまった。
「それは、……でも、どこにいるか訊かれたらどうすればいいですか? 華子さんに迷惑が掛かるのだけは嫌なんです」
とりあえず正直に打ち明ける。
「答えなくていいんですよ。『安全なところに居ます。どこかは言えません』で押し通せば。そして、わたくしのことは心配無用です。迷惑がどうのなど考えるくらいなら、最初から救いの手など差し伸べません」
きっぱりとした彼女の言葉に、有紗も覚悟を決めた。
「……わかりました。朝になったら、電話、してみます」
加賀の好意に応えるためにも、逃げてばかりはいられない。思い切って口にした有紗に、彼女は笑って奥の部屋を指した。
「それがいいでしょうね。では、寝ましょうか。ベッドの横に予備のお布団を敷きますね、狭いのですが」
「すみません、ありがとうございます」
「わたくし、お友達とお泊り会などしたことがないんですの。なんだかウキウキしますわ。有紗ちゃんは大変ですのにごめんなさいね」
有紗に気を遣わせないようにだろうというくらいはわかるものの、本当に楽しそうな加賀に少し心も軽くなる。
「私も初めてです。……ちょっと、楽しい、です」
有紗の返事に、二人は顔を見合わせて笑った。