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【Phase3】

「北原さん、これがあなたのデスクです。もともと社長一人用の部屋に急遽入れたので、少し狭いかもしれませんが」

 翌朝、出勤して来た有紗をこの社長室で待っていた一倉が、彼女に淡々と説明しているのを真瀬は無言で見守る。


「それでは、実際には真瀬の指示に従ってください。ただし! 本当に『おかしい』と思ったら、すぐに私か加賀主任に一言お願いします」

 ……随分な言い草だとは感じるものの、『人形』遊びなんて言い出した自分が彼に不安視されるのは仕方がない。

 これはビジネスが絡む真剣ごとなのだ。

 一倉は別に真瀬の人間性そのものを疑っているわけではないのだから。たぶん、おそらくは。


「わかりました」

 真面目に答えて、一倉を見送る彼女が身に着けているのは、レースやフリルたっぷりでスカート部分が大きく膨らんだワンピース。

 子どもの上履きのようにしか見えない、先の丸い靴。

 正直「ダサい」と捉えてしまったが、これは彼女の好みではないのだ。「可愛く、人形のように」という己の希望に沿ってくれたのだろうから、文句を言うのは良くない。

 真瀬自身が口にした通り、なんとも浮世離れした衣装。

 そういう点でも、理想通り、なのだろうか。

 だからと言って、「コスプレ感満載」という訳でもない。茶系の落ち着いた色味のせいもあるのか、あくまでも「日常に頑張って盛った」レベルだ。

 この辺りは秘書室の二人の匙加減なのだろう。感謝しなければ。


「……えーと。そのまま出勤してきたの? あ、服」

「? はい」

 着替える場所がないのだから他に方法もないのは確実なのだが、思わず確認してしまった真瀬に彼女は何の疑問も抱いてはいないようだ。


「もし嫌なら、恥ずかしかったりしたら更衣室もあるから。通勤中まで僕に合わせなくていいからね」

「え? いえ、別に。そんなおかしな服じゃないですよね? 全然イヤらしくないですし。昨日お店の方も、加賀さんと鈴木さんも、どの服も似合うって言ってくださったので」

 どうやら有紗は、所謂露出度の高い格好をさせられるのでは、という危惧はしていたらしい。

 純粋培養の箱入りでもあるまいし、今どきの女子高生だったのなら当然それなりの知識はある筈だ。

 そして確かにこの少女は、本当に素直な性格なのだというのだけは真瀬にも伝わった。買い物に来た客に、店員が「似合わない」という言葉など発するわけもなかろうに。


「あの。私は何をすればいいんでしょう」

 会話が途切れ沈黙が流れて、有紗が思い切ったように口を開いた。


「何、って。うーん、別に何も。僕の仕事中は構えないから、自分の席で好きなことしてていいよ。本でもゲームでも。僕が呼んだときにちょっと来てくれたらそれで」

「……はぁ」

「あ、そうだ。僕のことは『ご主人様』て呼んで欲しい。で、君のこと『有紗』って呼んでも構わないかな? あ、でも嫌ならこっちはいいよ」

 重要事項ではあるが、実際にどういう反応をされるか心配もしていた。しかし彼女は何の抵抗も示さない。


「はい、わかりました」

「そっか、よかった。じゃあよろしく」

「ご主人様、よろしくお願いします」

 真瀬は所謂「メイド喫茶」なるものに行ったことはなかった。しかし、そういう非日常の場ではなく普段通りの自分のオフィスで呼ばれるには、あまりにも場違いなその呼称。

 そもそも「ご主人様」なる単語自体、普通に生きていたらまず聞く機会がないのだから。

 それでも、気恥ずかしくはあるが決して嫌な気はしなかった。毎日呼ばれていれば、そのうち慣れるだろう。


 ──ご主人様。そうだ、『主人』なのだ。この『人形』の。


 単なる持ち主ではない。思っていたよりも面倒、かもしれないけれど、その分楽しみもありそうだ。

 真瀬には無縁だったものの、多くの人間が『育成』的なゲームをしたがるのも同じなのだろうか?


    ◇  ◇  ◇

 三日目になるその翌日。

 正確には『人形』としての二日目、有紗が出勤するなり社長室で迎えてくれた真瀬が焦った顔で訊いて来た。


「有紗、昨日お昼食べた?」

「あ、いえ。その……」

 突然のことに戸惑い、言葉に詰まってしまう。


『人形』が『ご主人様』の前で飲食など許されないだろう、と言い出せなかったのだ。飲み物はドリンクサーバーを利用できると一倉に教えられていたのだが、昨日は喉が渇いたと感じる余裕もなかった。

 一食くらい食べなくてもどうということはない。高校時代も、朝弁当を作る時間がない時はパンを買う金もなく、昼を抜くこともよくあった。

 毎日だと厳しいのは確かだが、昨日はそれ以上考えることを放棄してしまったのだ。それは有紗の問題だと思っている。

 困る有紗に、真瀬の方が動揺しているように見えた。


「それくらいなんで言って、──いや僕が、『主人』が気配りすべきことだよな。本当にごめん」

 頭を下げる真瀬に驚きで言葉も出ない。なぜ、自分なんかにこんな。


「昼休みは勤務時間外だから! 『人形』であろうとなかろうと、自由に過ごしていい、というか過ごせなきゃいけないんだよ」

「……はい」

「ウチはこの規模だから社員食堂なんてものはないけど、希望者にはデリバリーランチも利用できるようにしてるんだ。人数集まらないと配達してもらえないからね」

 ふっと息を吐いた真瀬が、有紗を安心させるように静かに説明してくれた。


「総務で毎朝取り纏めてるからさ、有紗はもし食べたかったら秘書室に入れてもらえばいいよ。一倉に言っとく。……あ、もちろん外に食べに行くのも買いに行くのも好きにしていいからね」

「わかりました。……ありがとうございます」


【NOBLESSE OBLIGE】

 そんな言葉が唐突に頭に浮かぶ。

 高校の世界史の授業中、斜に構えたところのある担当教師がいきなり黒板に書き殴ったフランス語。


「『|NOBLESSE OBLIGEノブレス・オブリージュ』。みなさんは知ってますか? 身分の高いものには相応の義務がある、というような意味です。身も蓋もない言い方をすれば(ほどこ)しですが、上に立つ人たちには上なりの(しがらみ)や矜持があるってことですね」

 教室に広がる微妙な空気などものともせず、彼は書いたばかりの文字を無造作に消すと、何事もなかったかのように授業の板書を再開した。

 真瀬にとっての有紗もそういう対象なのかもしれない。『主人』と『人形』という上下関係において。


「有紗」

「は、はい。何でしょうか、ご主人様」

 ふいに呼ばれて、ぼんやりしていた有紗は慌てて背筋を伸ばす。


「ちょっと立ってみてよ。で、この前、部屋の中央でくるっと回って見せてくれる?」

 真瀬が自分のデスクに座ったまま机の前のスペースを指すのに、有紗はゆっくりと立ち上がりデスクの脇を回って指示された場所に出た。


「ここで回ればいいんですか?」

「そう。優雅にふわっとね」

 よく理解できないままに、有紗はスカートが広がるように気をつけてその場でゆったりと回転して見せる。


「ああ、いいね! 今日の服、なんかファンタジーに出て来そうでいいねぇ。凄く可愛い」

 有紗が身に着けているのは、オフホワイト地に紺のアクセントラインが縦に走るワンピース。

 正直なところ、昨日まで着ていたものと今日の衣装の間に何の差があるのか有紗には判別できなかった。

 しかし、真瀬には違うようだ。言うまでもなく大事なのは彼の意向。


「あの、ご主人様がこれがお好みなら、これを多めに着て来ましょうか?」

 毎朝「可愛い」と声掛けしてはくれるものの、特に衣装に関する具体的な感想など言われたことがなかったため咄嗟に訊いた有紗に、真瀬はあっさり首を振った。


「いや? いつものも可愛いよ、ホントに。どれが好きとか嫌いとかじゃなくて、それぞれ有紗には似合ってると思うし。だから有紗の好きなのを今まで通りに着て来てくれたらいい」

「……はい」


「今日のは何て言うか、なんかのゲームっぽい? うーん、僕あんまりゲームしないから詳しくないんだけど、テレビとかで観たのかなぁ」

 単に既視感を覚えただけだ、とあっさり言って真瀬は話を終わらせた。

 突然始まった『人形』生活も、ようやく一週間。

 初日はどうしても時間が取れない、と申し訳なさそうにしていた真瀬は、その翌日に何とか空きを作ってスマートフォンを買いに連れて行ってくれた。

 すべてお任せで、いくつかの候補の中から見た目の色だけで選んだ端末にも、どうにか馴染んできたところだ。


    ◇  ◇  ◇

 今日は真瀬は朝から留守にしていて、夕方まで社には戻らない。

 有紗ももちろん数日前から聞かされていて、適当に休んでもいいと指示されてはいたが、とてもそんな気にはならずにいつも通り出勤した。

 もちろん『人形』として。


 一人きりの社長室で、デスクの引き出しに仕舞ってある、秘書室の鈴木に借りた本を捲ってみる。

 幼い頃から落ち着いて読書に没頭できる家庭環境ではなかったため、有紗は本を読むのがあまり得意ではない。

 勉強もできる方ではなかったが、親身になってくれた学校の教師には「お前は頭は悪くないんだから」と励まされたりもした。

 しかし、肝心の自分がそうは思えなかったのだ。

 そこへ目の前の電話機から内線の呼び出し音が鳴り、一瞬戸惑ったものの無視するわけにも行かず有紗は受話器を取って応答する。


「はい」

『北原さん、一倉です。今日も来られたんですね。いつ帰っていただいても構いませんから。ご挨拶も不要で――』

「あ、あの!」

『すぐ伺います』

 相手の言葉尻に被せるような有紗の勢いに、彼は何か察したのかすっと口調を変えた。

 社長室のドアをノックする音に、有紗はボリュームのある「衣装」を揺するようにして席を立ち彼を迎えに出た。


「室長さん、何か私にできることありませんか? ……あ、何もできない、んですけど」

「……それは暇を持て余すのも苦痛ですよね。普通の人間は」

 多くを語らなくとも、彼には有紗の言わんとするところは通じたらしい。


「北原さん。その場しのぎにしかなりませんが、明日とりあえず社長にあなたをここから連れ出す許可を取ります。秘書室の仕事でできそうなことがあれば、お願いしていいでしょうか」

 何やら首を捻って考えていた一倉は、すぐに有紗に向き直ってありがたい提案をしてくれる。


「はい!」

 弾んだ声で返事する有紗に、彼は笑みを向けて部屋を出て行った。


 翌日、約束通り一倉が社長室を訪れる。ノックの音に真瀬が(いら)えを返すと、ドアを開けて彼が入って来た。


「社長、今日は北原さんを少しお借りしていいですか? 秘書室の面々と、社長の可愛らしい人形との交流を図りたいのですが」

「え? まぁ、有紗がいいなら僕は構わないよ。どう?」

「行きたいです」

 横を向いて確認する真瀬に、有紗は勇気を出して承諾を返す。


「じゃあどうぞ。ウチの秘書はみんないい子でいい人だから。意地悪とかされないだろうし」

「社長、ドラマの観過ぎでは? 女性陣に叱られますよ」

 真瀬の言葉を軽くいなした一倉に促され、有紗は彼について社長室を出た。


「お手すきの方だけで結構ですので、少し来ていただけますか?」

 有紗を伴って秘書室に戻った一倉の呼びかけに、主任の加賀をはじめとする数人が口々に返事を寄越した。


「手の空かない方はどうぞそのままで。すみませんね」

 改めて自分のデスクに残った数人を労ってから、一倉の指示で部屋の端のソファセットに移動する。

 細長いテーブルを挟んで、一人掛け用のソファが二つと三人掛けがひとつ、それぞれ配置されていた。


「私と並ぶのは皆さん気が進まないでしょうし、北原さんも初めてですので。申し訳ありませんが、あなた方がそちらに三人で掛けていただくので構いませんか?」

 三人の女性が承諾したため、一人掛けに一倉と有紗、向かいに秘書の女性たちが腰掛けることになった。


「皆さん、コーヒーと紅茶、どちらがよろしいですか?」

 四人がそれぞれ腰を下ろした後、一倉が確認する。


「室長、お茶でしたらわたくしが――」

 有紗が反応するよりも素早く、加賀が腰を浮かし掛けた。


「仕事ではありませんから。で、飲み物は?」

 掌を向けることで加賀をあっさり制して、彼はさらに希望を尋ねる。


「……コーヒーをお願いいたします」

「あ、私は紅茶でいいですか?」

 不承不承といった調子の加賀にもう一人の女性が続く。


「あたしはコーヒーでお願いします。北原さんは?」

「あ、あの紅茶、を」

 鈴木に問われてとりあえず答えた。いいのだろうか。

 それぞれの希望を確認し、一倉は室内の一角に設えられた給湯コーナーに消えた。


「室長ってマメな方でしょ? たぶんあたしたちが座ってから言ったのも、前もってだと誰かが『自分やります』って給湯コーナー(あっち)向かっちゃうからよ」

 男性でもそういうことをするのだな、としか感じていなかった有紗は、テーブルに乗り出して囁くように教えてくれた鈴木の考察に、そんな観点もあるのだと初めて気づかされる。


「なかなか交流の機会を設けられなくてすみませんでした。改めて、こちら社長室付の北原さんです。今更ですけれど」

 テーブルに淹れて来た飲み物のカップを置いて、改めて一倉が口火を切る。


「わたくしと鈴木さんはお衣装の調達にご一緒しましたので。ここは鷺島(さぎしま)さんからどうぞ」

 加賀の仕切りに、初出勤の日に紹介されてはいる筈だがまったく覚えのないショートカットの溌剌とした女性が有紗に向けて話し始めた。


「私、鷺島 依美(えみ)です。よろしくね」

「あ、北原です。こちらこそ、よ、よろしくお願いします」

「年齢的には、私が主任と鈴木さんの間ですね」

 にっこり笑う鷺島に、加賀が即座に横から突っ込みを入れる。


「間には違いありませんが、もう少し正確に。鷺島さんは、わたくしよりずっと鈴木さんに近いじゃありませんか」

「そうですけど、そんな厳密にする必要ありませんよ。主任はもっとご自分に自信をお持ちになるべきでは?」

「あのぅ。北原さんが話について行けないと思うので、お年のこととかお教えしていいですか?」

 口を挟めずおろおろしている有紗のために、鈴木が軽く挙手して許可を得てくれた。


「もちろんですわ。ごめんなさいね、北原さんのための機会ですのに蚊帳の外に置いてしまって」

「加賀主任はあたしより十歳年上で、鷺島さんは三歳上なの。鷺島さんは、秘書室であたしのすぐ上の先輩になるのよ」

 慌てたように詫びる加賀に頷いて、鈴木が説明してくれるのを聞く。


「……女性の年齢の話には、私は恐ろしくてコメントしようもありませんが、確かに加賀主任はご自分の年齢を気になさり過ぎには思えます。世間的に見てもまだまだ十分お若いにも拘らず」

 おそらく本人的には相当に思い切ったのだろう一倉の台詞に、加賀はやはり静かに話を続けた。


「――確かに、室長の仰る通りかもしれません。過ぎた謙遜は嫌味というのか、かえって周りに気を遣わせるとも申しますが、わたくしの場合は別に謙遜でも自虐でもございませんの」

 いったん目を伏せて、加賀は言葉を切る。


「ただ、……親が『いい年なのに』というスタンスで責めて来ますので、自分でも知らず影響されているのだと気づきましたわ」

 気をつけます、と恐縮したような彼女に皆一様に穏やかな笑みで応える中、有紗は顔が強張るのを抑えられなかった。

 誰にも見られないようにしなければ、と不自然に俯く有紗に「人間相手」のプロである秘書たちが気づかないわけがないのだ。

 それでも無遠慮に理由を問い質すことをしない一倉と女性たちの心遣いがありがたかった。


「あの、室長。この場のテーマの縛りとか何かあります? 仕事以外の話題でも構わないんでしょうか」

 素知らぬ振りで矛先を変えてくれた鈴木に、一倉が肯定を返す。


「無論です。会議でも打ち合わせでもありませんし、何なりとご自由に。もし私がいない方が話が弾むようなら外して――」

「いえいえ、室長も居てくださいよ。いろいろ語っていただきたいですね」

 鷺島がわざとらしい笑顔で彼を引き留める。


「主任、やっぱり親御さんいろいろ言って来られるんですか? ご結婚とか? ……あ、仰りたくなかったら今のはナシで!」

 すみません、と焦る様子の鈴木に、加賀は気にするなという風に笑って見せた。


「いえ、構いませんわ。そうですね、わたくしの親はもう七十前後で、同年代の方たちの親御さんより少し年上で余計なのか、古い固定観念が強いんです。女が一人、三十過ぎても結婚せずに生きているというだけでこの世の終わりみたいに嘆かれて……」

 加賀が、一つずつ言葉を選ぶように話し出す。


「わたくしが一人暮らしをしているのも気に入らないようですわ。今の七十くらいの方々って、もうそういう価値観だけではなかったと思うのですけれど、いったい何なんでしょうねぇ」

「うーん。確かにその年代の方って、様々な激動の時代を生き抜かれたわけだから、むしろ多様な価値観に触れて来られている筈なんですけどね。やはり考え方というのは簡単には変わらないということでしょうか」

 一倉が加賀の台詞を受けて考えを述べる。

 三十代二人の軽くはないやりとりに、有紗だけではなく二十代の二人も聞いているしかできないようだ。

 有紗とは理由は違うだろうが、自分一人が取り残されたのではないことに安心してしまった。


「わたくしは正直、結婚願望ってまったくないんですの。子どもも嫌いではありませんし、小さな子は可愛らしいとは思いますが、特に子を持ちたいという希望もございませんし。でも両親にとっては、それ自体がもう非現実的な思考らしいんですのよ」

「え? 今どきそんなのごく普通ですよね? いや、あたしは一応結婚願望はある、……ある、んですけど」

 鈴木の声が小さくなって行ったのは、おそらく具体的な結婚生活などは描いていないからだろう。


「北原さんは? 結婚願望ってあるの? いや、意外と今の若い子ってそういうのシビアだったりする?」

 唐突な鈴木の問いに、有紗は一瞬言葉に詰まる。結婚。──家族。

 しかし、名指しでこの至近距離で問われて、無言を貫くこともできなかった。口が乾いて声が出にくいのをどうにか絞り出す。


「あ、えーと。……いつかはしたいな、って、思って、ます」

「そっかぁ。なんか、素直にそう言えるのっていいですねぇ」

 それでもどうにか答えた有紗に、鈴木だけではなく他の面々も笑みを浮かべて頷いていた。


「えーと、私もいいですか? 失礼なこともお聞きするかもしれませんけど、答えたくなければ当然無視してくださっていいですから。……で、室長はプライベートは謎ですけど、実際どうなんでしょう?」

 聞き手に回っていた鷺島が思い切ったように口を開く。


「私? いきなり私ですか? ……私も加賀主任と同じです。結婚願望はありません」

 突然の指名に多少混乱した様子は見せたものの、一倉は落ち着いて話を継いだ。


この会社(ウチ)は大きくはないですが、男女とも結婚のプレッシャーを掛けられることもありませんし、いざ結婚したり出産したりしても、きちんと制度も使えますしね。なかなか働きやすい風土ではないかと考えていますが」

 一倉が、どういう意図なのかさり気なく会社のメリットを並べるのに、鈴木が興奮したように乗って来る。


「あ! あたし、制度があるのに実質使えないなんて信じられなかったんですよね。いや、法律で決まってるんじゃないの? って。でも、去年就職してほかの会社の友達の話聞くと、ほんっといろんなとこあるみたいですよ」

「先代社長の時代は、まだまだ旧態依然な部分も残っていましたよ。主任はご存じでしょうが」

「……そうでしたわね。そう思えば本当に変わりました」

 過去を振り返る一倉の言葉に、加賀もしみじみとした口調で力を込めて頷いた。


「そうだったんですね。全然知りませんでした。あたしが入社した時には、もう現体制でしたし」

 最も若い鈴木が驚きを表す。


「先代社長が問題だったわけじゃないんです。社内全体の空気の問題があったというのか、特に上層部が。……現社長は、本当によくやっておられましたよ、いや今も」

「ええ、本当に」

「……前の社長さんって、ご、今の社長さんのお父さんなんですよね?」

 一倉と加賀の会話を聞き有紗が以前真瀬に聞いた話を思い出して問うのに、秘書室長がそうですよ、と微笑む。


「北原さん。社長はちょっと困った人に見えるかもしれませんが、……いえ、確かにそういう面は否定できませんが、決して悪い人間ではないんです。若いあなたに多くを委ねるのは酷ですが」

 有紗には彼が何を言いたいのかよくわからなかったのだが、一倉が真剣な目で告げる言葉に黙って首肯した。


「あ、そうだ! お買い物の時に言ってたんですけど、またスイーツ会しませんか? いえ、他の何会でもいいんですけど。北原さんも来て欲しいから、室長何とかなりません?」

 解散のタイミングで、鈴木が思い出したように持ち出した話。


「ああ、そういえば最近企画していませんでしたね。皆さんお忙しそうでしたし。是非、近いうちに。よろしければ、あとで都合の悪い日を教えてください。他の皆さんにも伝えていただけますか? ──社長には私が何とか話を通します」

 一倉がにこやかに言葉を繋ぎながら、最後の一節は有紗の目を見てくれた。


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