【Phase2】
受付で名乗った有紗は、社長室だというこぢんまりした部屋に通された。
中で待ち構えていた真瀬に服装について呆れられたようだが、まさかアルバイトに通うのと同様のシャツとデニムで来られるはずもない。
一応でも「きちんとした服」はこれしか持っていないのだから他にどうしようもなかったのだ。
ドアがノックされ、真瀬によって室内に招き入れられた男性が有紗に向かい名乗った。
「初めまして。私、秘書室長の一倉 勇吾です」
撫でつけた黒髪と銀縁眼鏡の彼は、真瀬ほどではないが長身の部類ではあるだろう。年代もおそらくは同じ頃合いに見える。
「は、初めまして。北原 有紗です。よろしくお願いします」
「あ、僕ちょっと。すぐ戻るから」
断って部屋を出ていく真瀬を見送り、残った二人で会話を続けた。
「えーと、一つ確認しておきたいんですが。本当に納得されているんですか? こんなくだらな、あいや、突飛な、その」
「はい。私、何もできないのに、お給料いただけるだけで嬉しいです」
真瀬のいない隙に、ということか素早く切り出した一倉に、有紗はすんなり頷いた。
「では、何かありましたら必ず私にお知らせください。女性の方がということでしたら、秘書室のメンバーでも構いません。これからご紹介します」
「何か、って。──だって怪しいお仕事じゃないって!」
「いえ! その心配だけは御無用です。真瀬はそういう人間ではありません」
有紗が咄嗟に上げてしまった声を、彼は冷静に否定した。
「じゃあ、あの……?」
「ですから。……私が申し上げることではありませんが、更に理解不能な何かを言い出したりしたら、ということです。あくまでも万が一の可能性として」
既に『人形』などという非常識極まりない考えを、実際に行動に移した彼の発想にはついていけないということなのだろう。
「……わかりました」
「北原さん。この部屋は防音でもなんでもないですし、勤務時間中に社内が無人になることは絶対にありません。私を始め人の出入りもございますから、施錠もいたしません。少し騒げば外に筒抜けですから、そういう意味では大変安全です」
本当に疑っていたわけではないが、真摯に説明してくれる彼の言葉に僅かな不安も消えた。
◇ ◇ ◇
社長室に戻ってきた真瀬は、一倉と有紗と三人で連れ立って秘書室へ向かった。
「どなたか彼女の、……衣装調達のお手伝いをお願いできませんか?」
一倉が、オフィスにいる数人の女性に有紗を紹介したあとで、前もって真瀬に依頼された件を取り上げてくれる。
「衣装、ですか?」
「ええ。詳しくは社長から」
秘書の女性の当然の疑問も、彼はそのまま真瀬に振って来た。
「えーと、その。可愛らしい服って言うのかなぁ。お人形みたいな、普通の子が着てるようなのじゃない、生活に向かないゴージャスなのとか?」
真瀬のまるきり要領を得ない説明に、室内に困惑が広がる。
一応、社員に受け入れられている自信はあった。
もちろん業務において、ではあるが、真瀬の経験上も人間性に疑問符のつく上司を信用などできない。
社会人として表面上合わせることはしても、常に警戒は解けないのだ。
その点でも社内から最低限の信頼は得ているつもりではいる。
二代目の真瀬は、「先代と比べて」と評されるのは当然覚悟していた。己はまだまだ父には敵わないのも承知している。
だからこそ、少しでも自分の価値を高めるために努力を重ねて来たと言い換えてもいい。
とはいえ、これはさすがに無理が過ぎたか。
「わたくしでよろしければ」
その場の何とも表現し難い空気を読み取ったのか、主任の加賀 華子がさり気なく挙手して名乗り出てくれた。
「ただ、年齢差もありますし、もう一人若い方にも来ていただけたら」
「あ、じゃああたし行きます」
加賀の呼び掛けに中の一人が手を上げる。
彼女は秘書室で一番若い二年目の鈴木 由香で、これで人選はどうにか片付いたと安堵の溜息が漏れた。
前に進み出た二人のみならず、女性たちは互いに顔を見合わせてはいるがそこに不快感は見当たらない。社長と社員の距離が近い、いい意味でアットホームな社風も影響しているのか。
特にこの秘書室の面々は、真瀬の『足りない』らしい部分もよく見知っている筈だ。
「仕方がないな」と呆れと諦めを抱かれているのは、機微に疎い真瀬にもひしひしと感じられた。
「あの、社長。一つよろしいですか?」
加賀と何やら言葉を交わしていた鈴木が、真瀬に問うて来る。
「何?」
「衣装なんですけれど、たとえばゴシックロリータみたいな感じがよろしいんですか?」
「え、え? 何それ? あ、ちょっと待って」
真瀬は鈴木に断ると、一倉に声を掛けて彼のパソコンを使って今聞いた単語を検索する。
「あー、……素敵、だとは思うけど、こういう暗いのじゃなくてもっと可愛い、えー」
画面を埋め尽くす、黒・黒・黒の豪奢なドレスに圧倒されてしまう。
「ではロリータファッション的な? 何か具体的なイメージがあればご教示くださると助かります」
「こっちの方がわかる、かな。そうだね、『お人形』っぽいと言えば確かにこういうのか。あまりにもこう、大仰じゃない程度の――」
「わかりました。コスチュームプレイに寄り過ぎず、日常的過ぎず、という線でよろしいでしょうか」
また新たなよく知らない言葉を機械的に検索し、頭の悪そうな返事を繰り返す真瀬に、鈴木の方が言語化できない感覚を察してくれたらしい。
「う、うん。それでよろしく」
正直、すべては理解できていなかったが、真瀬は咄嗟に鈴木の確認に肯定を返した。
言うまでもなく、仕事の面でこんな醜態は見せないのだが。
「申し訳ありません。本日は予定の仕事がありますので、今からはちょっと」
いつも生真面目な加賀が、真瀬と一倉を交互に眺めながら頭を下げる。
「いえいえ、今すぐなんて言うつもりはないですよ。明日以降でも――」
「でも、それじゃ明日着るものがないんじゃないか?」
加賀の言葉を慌てて否定しようとした一倉に、真瀬は何も考えずについ横から口を挟んでしまった。
「……わかりました。加賀主任、鈴木さん、当然業務ですので手当は出します。申し訳ありませんが、本日時間外にお願いできますか?」
言いたいことはあるとしても、彼は部下の前で『社長』の体面を汚すような真似はしない。
「承知いたしました。……鈴木さんも大丈夫ですか?」
「はい」
「ああ、ありがとうございます」
無理なら無理な時だ、と諦め半分だったのだろうが、彼女たちは上司の依頼をあっさり承諾してくれた。
「室長。もし可能でしたら十六時頃に出ても構いませんか?」
「無論です。よろしくお願いします」
重ねての加賀の申し出を、一倉が笑みを浮かべて了承する。
少なくとも表面上は和やかな二人に、彼はホッと胸を撫で下ろしているようだ。
「それじゃ、悪いけどよろしくね。加賀主任、鈴木さん」
後に続いて腰を折って挨拶した有紗を連れて、真瀬は秘書室を出た。
(清見こうじさんに描いていただきました~(*'▽'))
◇ ◇ ◇
「あ、そうだ主任──」
「鈴木さん、街中では役職は止めましょう。わたくしは加賀で。社長のこともお名前でお呼びしましょうか」
社内の習慣のまま呼び掛けた鈴木に、加賀が軽く注意する。
「はい、わかりました」
「北原さん、その靴……」
鈴木に軽く頷きを返したあと、有紗の足元に目をやった加賀が何か言い掛けるのに慌てて言葉を被せた。
「すみません! スニーカーよりはいいと思って、私革靴これしか持ってなくて、その」
高校時代から履いている、くたびれた黒いローファー。
自分の格好が、綺麗なオフィスにもお洒落な街にも、全身何もかも場違いだということくらい有紗自身十分承知している。
しかし有紗の高校はアルバイト禁止だったため、必需品以外を買う余裕はなかったのだ。
「謝る必要なんてありませんのよ。わたくしの方こそ不躾な言い方でごめんなさいね。靴も買いましょう」
恥ずかしくてしどろもどろの有紗に、加賀は穏やかな笑みを浮かべながら宥めてくれた。
「北原さん、ヒールなんて履いたことないんじゃない? いきなりで大丈夫でしょうか。靴擦れとか、………あ、でもヒールよりフラットシューズの方が合うのかな。うーん、それも服のタイプによりますねぇ」
「その観点は大事ですよ、鈴木さん。できるだけ楽な靴と合わせられるお衣装を選ばないと」
鈴木の言葉に、加賀が重々しく頷いている。
有紗は、この二人のような美しく優秀だろう大人の女性に優しくされたことなどなかった。
アルバイトしていたカフェへの通勤で、朝に夕に見上げていたオフィスビル群。その中で働く人たちは、別世界の冷たい存在だと思っていたのだ。
仕事だとしても、彼女たちが少しでも有紗の負担にならないように考えてくれていることくらいはひしひしと伝わって来た。
「どういうところへ行けばいいのかしら。鈴木さん、真瀬さんに言ってらしたような服を扱うセレクトショップって御存知?」
「いえ、あたしの守備範囲ではないので」
「そうよね、わたくしも知らないわ。……とりあえず、若いお嬢さん向けのファッションビルに行きましょうか」
鈴木が首を左右に振るのに、加賀も同意している。
「あ、それならあたしが学生の頃行きつけだったとこはどうでしょう」
彼女たちの話は、有紗には半分もわからなかった。加賀はまだしも、鈴木は有紗と五歳しか変わらないというのに。
それでも、生活環境が異なると何もかもが違ってしまうのは経験上身に沁みていた。
「ここならいろんなタイプの女の子向けのショップが入ってますよ。より取り見取りです」
目の前に聳えるのは、有紗がテレビでしか観たことのないような華やかなショッピングビル。
「確か三階と四階にそういうお店があった気がするんですよね。あたしも久しぶりなので、変わってなければ、ですけど」
改めて記憶を確かめるようにしながらも鈴木は自信なさげだ。
一応、フロアごとのショップガイドもあるのだが、店名だけでははっきりしないのだそうだ。
「とりあえず上がりましょう。……北原さん、今日は貴女の趣味嗜好はちょっと考慮できないかもしれません」
「構いません。お仕事用、ですし。私は何でも」
相変わらず優しく気遣ってくれる加賀に、有紗はごく普通に返した。
もとより逆らえる立場だなどと思ってはいない。
加賀と鈴木に連れられるままにいくつものショップを回り、彼女たちが店員と話して候補に挙げた服を試着して行く。
もちろん、その合間に有紗の好みも参考までにか訊かれるのだが、今まで自分が知っていた洋服と違い過ぎる『何か』に、言葉など出て来ない。
煌びやかなあれこれに埋もれた店内で、「この中で一番好きな服を選んで」と指示されるに至っては、その場でまさしく硬直してしまった。
あとで訊いたところ、彼女たちの目にはそのショップの品はほぼ同テイストに見えたので、どうせなら有紗の好きなものをと考えてくれたらしい。
質問を無視するのは失礼だし、だからと言って何と答えればいいのかと困惑する有紗に、加賀は途中から「YES-NO」か「二択」で返せる問いに絞ってくれるようになった。
たとえば「北原さん、このくらいの短いスカートは如何?」、あるいは「この二つならどちらがお好き?」といった感じだ。
短いとはいえ、加賀の提示するものは「膝が見えるかどうか」程度であったのだが。
「北原さん、お化粧したことある? 化粧品持ってる?」
「……いえ、ありません。何も持ってないです」
買い物を終えてファッションビルを出た後、鈴木に問われて有紗は正直に答えた。ここで見栄を張る意味もない。
「そうですわ、お化粧のことを忘れていました」
「やっぱり少しはした方がいいですよね? デパート行くのがいいでしょうか?」
加賀の言葉に、鈴木が頷いている。
「それがいちばん無難ですわね。……北原さん、疲れていませんか?」
気遣ってくれる加賀に平気です、と返した。
「北原さんだったらホントに基本だけでいい筈だから、そんな難しく考えなくて大丈夫。若いんだし、何より肌も顔立ちもそんな綺麗なんだから厚塗りする必要なんてない、ってかしちゃダメよ。台無しだから」
おろおろしている有紗を安心させるためだろう、鈴木が気軽な口調で説明してくれる。
「北原さん、本当にお肌が白くてきめ細かくて綺麗ですものね。若さももちろんですけれど、それだけじゃありませんわ」
感心したように褒めてくれる加賀に面映ゆい思いはあるものの、有紗は率直に嬉しかった。
「じゃあデパートのカウンター行きましょう。あたしが使ってるブランドと同じでよければ、ちょっとはアドバイスもできるけど。あーでも、美容部員さんに訊いた方が確実ですよね……」
独り言のような鈴木の呟きを加賀が拾う。
「あら、それでも実際のユーザーの声というのは大切ですわよ。お店の方はマイナス面はなかなか口にはなさらないでしょうし」
「あの、私も鈴木さんに教えていただけるなら嬉しいです」
思い切って告げた有紗に、鈴木は「北原さんみたいな美少女と『お揃い』って、ちょっと照れるけど嬉しいわ」と笑ってくれた。
デパートの、鈴木がずっと好きで使っているというブランドのカウンターを訪ねる。若い女性に人気らしく、価格帯もそれほど高くはないそうだ。とはいえ、有紗にとっては簡単に手の出る値段ではなかった。
有紗が「化粧品」というものに抱いていたイメージを覆すような、文字通りキラキラした可愛らしいパッケージの数々。
主に鈴木が店員に要望を告げてやり取りをしてくれて、その結果目の前に並べられた商品の中から有紗の好みを訊いた上でひとつひとつ選んで行く。
実際に肌に乗せてみないとわからないから、と美しくにこやかな美容部員に簡単に化粧も施してもらった。鏡の中の、確かに自分なのにまるで知らない誰かのような顔。
購入するものを決めたあと、当然ながら自分で使えるようにと丁寧に教えてもらった。
「毎日してたらすぐ慣れるけど、わかんなかったらあたしに訊いて。最悪、明日は口紅だけ塗って、あとは会社に全部持って来たらいいから」
横から鈴木が小声で言い添えてくれるのにも、ありがたく礼を言う。
デパートを後にして、三人で歩きながら緩々と話した。
有紗は聞く方が中心ではあったけれど。
大半は配送を利用したのだが、直近二、三日分が要るだろうと一部持ち帰りにしたのだ。
それだけで両手いっぱいになる筈の荷物は、有紗が遠慮するのにも構わずに加賀と鈴木も手分けして持ってくれていた。
「真瀬さんはお仕事面でも人格面でも尊敬できる立派な方ですが、……心の中の『夢見る少年』が隠れていなくて大き過ぎるとでも言いますか――」
「ぶふっ」
思わずといった調子で噴き出した鈴木に、加賀が胡乱な目を向けた。
「……鈴木さん」
「す、すみません! 余りにも的確で、その」
「つまり、そう感じるのはわたくしだけではなかったのね」
一段低い声に反して機嫌を損ねた風でもない加賀に、鈴木も笑っている。
「北原さんて背が高いよね! ローファーなのに、ヒールのあたしと変わらないくらいだし。あたしもどっちかっていうと高い方なんだけど」
「そう、ですね。ずっと、あまり小さくはない、です」
むしろもっと小柄で人の影に居られる方がよかったのだが、有紗はたいていクラスの女子でも高い方から数えた方が早かった。
「北原さん、身長おいくつですの?」
「百六十七センチ、です。確か」
加賀に問われ、有紗は高校のときに測った数字を口にする。
「長身ですわね。わたくしなんて百五十三センチですもの。小学生の頃からほとんど伸びてませんのよ」
「え? 加賀さんてそんなに、──えっと、そのぉ。全然そんなイメージないです」
「そのための七センチヒールですもの。効果はあったようで何よりですわ」
ぽかんと口を開けた鈴木に、加賀は綺麗な笑みを浮かべた。
「ところで、髪はどうなんでしょう。わたくしたちは何も指示されてはいませんが」
「……私も何も言われてません」
唐突な加賀の台詞に、有紗も答えに詰まる。
何の加工もしていない、癖のある長い栗色の髪。「普通の子」のような、真っ直ぐな黒髪に憧れた時期もあった。
しかしそもそも髪だけではなく、有紗は普通の範疇には常に入れてもらえない。
長く伸ばしているのは、こまめにカットできず鬱陶しくなっても結べば誤魔化せて、美容院代を節約するにもちょうどよかったからだ。
カフェはもちろん飲食業なので、髪は必ず纏める決まりだった。特に「黒くないと」という制限もなく、地色のままでいる。
胸元に踊る毛先を、無意識に指先で触れた。切れと言われれば切るし、ストレートパーマもヘアカラーも、なんでも命令通りにするつもりはあるのだが。
「いや、このままでいいんじゃないですか? かえってあまり弄らない方が。ぼさぼさならともかく、北原さんの髪ってすごく綺麗なウェーヴだし羨ましい。天然よね?」
特に有紗に忖度する風でもなく、鈴木が気軽に話している。
「はい、生まれつきです。癖毛で……」
「とにかく、せいぜい毛先揃えるかどうかぐらいで。試着した時も別に浮いてなかったでしょう?」
「確かに、今日見たお洋服には合っていましたね」
鈴木の問いに、加賀が納得したように頷いていた。
「いまどきのお人形って、あたしも全然詳しくはないんですけど、すごくリアルで人間ぽいって言うのか。髪も、色はともかくスタイルは意外と普通だったりするんですよ。もちろん、バリエーションは様々ですけどね」
「鈴木さん、十分詳しいんじゃないですか? でも、本当にいろいろと興味の幅が広くていらっしゃるのね。わたくしも見習わないと」
「いやいや。こんなところ見習う必要ありませんて」
苦笑しながらひらひらと手を振る鈴木に、加賀は真剣な表情だ。
「でも、今日楽しかったです! こんな機会まずないですもん」
鈴木の声に、加賀も同意を返す。
「確かに。わたくしにはまさしく生まれて初めての経験でしたわ。……それにしても、とても普通には見えないお洋服で着る前はどうなのかと気を揉んでおりましたが、北原さん本当によくお似合いでしたわ。やはり『夢見る少年』が求めるのは『夢の中の少女』なんでしょうか」
「き、きっとそう、です、ふっ……」
鈴木が笑い混じりに相槌を打った。
「そうだ! 北原さん、もし社、あ、真瀬さんの許可が出たら、退勤後の会に一緒に行かない?」
何の脈絡もなく、ふと思い出したように鈴木が有紗を誘ってくれる。
「一倉さんが主催で、職場で希望者募ってあちこち行くのよ。スイーツ食べに行くのが一番多くて、食べて飲んでもあるんだけど北原さんまだ十代だものね」
「あ、……もし行けたら嬉しい、です」
とりあえず喜びを表した有紗だが、加賀はまた違うポイントに食いついたらしい。
「……十代。そうね、北原さんわたくしより十五も年下なんですものね」
「え? 加賀さんて、私よりそんなに年上なんですか? 凄くお綺麗だし、全然そんな風に見えません」
素で驚いた有紗に、加賀は苦笑している。
「そう。もう三十三ですのよ。真瀬さんと同い年です」
「そうでしたっけ? 加賀さんが一倉さんより一つお若いのは存じてましたけど」
鈴木が小首を傾げるのにも、加賀は丁寧に答える。
「ええ。一倉さんは真瀬さんのひとつ先輩ですから」
「そういえばそうでしたね。ずっと同じ一貫校なんですよね?」
「そのようですわね」
先輩二人の話を聞きながらどこか上の空だった有紗は、鈴木の「北原さん、もう何か食べて帰らない?」という声掛けを聞き逃すところだった。
「はい。……あ! あの、すみません、お金、が――」
決死の覚悟で告げた有紗に、加賀が「貴女の分は真瀬さんが」と笑ってくれた。
世話になり通しだった彼女たちと別れ、電車に乗る。
大きな荷物を抱えて駅からの長い道を歩き、ようやく辿り着いた狭い我が家。
有紗は今日ほんの数時間で、加賀と鈴木に大量の洋服や靴、バッグ等を見立ててもらった。今持ち帰ったのはその一部に過ぎない。
いったん座ったら二度と立ち上がれなくなりそうで、有紗は気合を入れて荷物を解いて行った。
ワンピースやブラウス、スカート、パニエ等をハンガーパイプと部屋の壁面の空きを駆使してどうにか吊るし、靴下類を引き出しに仕舞う。
配送分が来たらとても収納できそうにない。ハンガーパイプを買い足すべきだろうか。
バッグは中身を移すためその場に置いて、靴は玄関のスニーカーとローファーを端に寄せて何とか並べた。
化粧品はちょっと迷った末、とりあえず食卓として使っているローテーブルの端に置いておくことにする。こちらも、何かケースを買って来た方がよさそうだ。
パウダーやリップは、化粧直しにも使うのでポーチに入れておけばいいと教わったのでその通りにする。
衣装は、ショップ店員のアドバイスを思い出して組み合わせを考えなければならないが、明日は一枚で済むワンピースにしよう、と決めた。
それならあとは小物だけでいいからだ。スカートの下にパニエとレースのドロワーズ、それに靴。
そして、何より心配なのが化粧だった。大丈夫だろうか。本当に自分ひとりでできるのだろうか。
明日は早めに起きた方がよさそうだ、と有紗は思う。鈴木にすべて頼るのは最終手段にしなければ。
「……パスタ。美味しかった」
今まで行ったこともないような、お洒落なイタリアンレストラン。
加賀と鈴木によると、決して高級店ではなくかなり気軽な部類らしい。
実際、こんなみすぼらしい服装の有紗でさえ普通に通されたのだから、気取った店でないのは確かなのだろう。
しかし、メニューを見てもまるで理解できない有紗に呆れることもなく、さりげなく好みを訊き取って良さそうな料理をオーダーしてくれた彼女たち。
怖かった。『人形』なんて、いったいこの身に何が襲い掛かるのかと、昨夜は布団の中で震えが止まらなかった。
しかし今日は、嫌なことなどただのひとつも起きていない。
でもまだ、あくまでも前哨戦。
明日からいよいよ、有紗の新しい生活が幕を開けるのだ。