【Phase 0】
出先での仕事を終え、真瀬 彰洋は自社の傍まで戻って来る。
所詮二代目の、三十過ぎの若造と見られようが、仮にも社長として社員の生活を背負っている立場だ。
舐められても侮られても、内心の憤りをぐっと抑えて表向きは平然とした顔をしなければならない時も多かった。
必要なら頭を下げるのも厭わないが、だからと言ってただ遜ればいいというわけでもないのが難しい。
朝から神経を擦り減らした案件がようやく片付いて、とりあえず腹ごしらえだけ済ませようかとちょうど目についたカフェに入った。もう二時近いがランチタイムは終わっていないようで、店の前に案内が出ていたからだ。
「いっ、いらっしゃいませ。こちらへどうぞ」
見るからに慣れない様子の若い女性店員に、ガラガラの店内中ほどのテーブルに案内される。
真っ直ぐ顔を見ることもしない伏し目がちで、そもそも接客業には向いていないのではないか。しかし、そんな風に感じたのもほんの一瞬だった。
「ご注文がおき、お決ま――、あ!」
口上を告げるのに精一杯なのか、手元まで注意が行き届かなかったらしく、テーブルに置かれたばかりの冷水の入ったグラスが勢いよく倒れた。
「うわ!」
咄嗟に避けて我が身に掛かるのは免れたが、間抜けな声を上げてしまった。
仕事用のスーツは万が一を常に想定して職場に予備を揃えてはいるが、たとえ近距離でも濡れ鼠で往来を歩くのは勘弁して欲しい。
しかし真瀬の醜態は、テーブルから転げ落ちたグラスが割れる音に消された。目の端で何か動いた気がして咄嗟に顔を上げると、棒立ちの店員が両手を無意味に彷徨わせている。
頭では片付けなければ、と思っても行動がついて行かないといった様子だ。
茫然とした表情にも拘らず、彼女の透き通るような白さの非常に整った容貌に目を奪われた。そんな場合ではないのもよくわかっているのに。
「ちょっと、アリサちゃん! すみません、お客様。お怪我は⁉」
結局何もできずあたふたするだけの彼女に、店長がタオルやモップを持って飛んで来た。
水だけならまだしも、ガラスの破片が飛んでいるかもしれないのだから慌てるのも当然か。
「いえいえ、大丈夫ですよ。目の前で割れたわけじゃないですから。服も濡れてないし、もし掛かっても水だしね」
真瀬がとりあえず表面的に繕って口にするのに、それでも店長は再度頭を下げて詫びた。
そこまでされると逆に居た堪れないが、相手も客商売、しかも責任者なのだから仕方がないだろう。
「本当に申し訳ありません。──アリサちゃん、ホールもういいから下がって」
「……す、すみま、せん」
青ざめた表情で呟いて頭を下げると、彼女は逃げるようにバックヤードへ駆けて行く。
少なくとも、客の前で店員を怒鳴りつけるような店でなくてよかった。
あれだけはやめて欲しいと真瀬は常々感じているのだ。叱るなら裏でやってくれ、としか思わなかった。
その後ろ姿を目で追いつつ、つい髪をかき上げてしまい慌てて右手を下ろす。髪をきっちりセットすると崩れた時にかえってだらしなく見えてしまうため、自然派と割り切って清潔感にのみ気を配っていた。もちろん黒髪のまま染めることもしていない。
自分で言うことではないのは承知の上で、真瀬は俗にいう「イケメン」の範疇に入る、らしい。だからこそ、多少は隙のあるスタイルの方が仕事上も有益なのは実感していた。
ふと、テーブルのすぐ脇の床に親指の先ほどの欠片を見つける。薄く透明なガラスが、照明を反射して煌めいていた。
あの、どこか怯えさえ感じる店員のように繊細な、と妙な連想が浮かんだ途端に破片は店長によって拾われてしまう。
「僕、こちらはたまに来ますけど初めて見る顔ですね。新人さん?」
間が持たずに話し掛けた真瀬に、ようやくテーブルや床を拭き終わった彼が答えてくれた。
「はい。先週、バイトに応募して来たんです。この春高校卒業したそうで、可愛いし素直ないい子なんですけど、……ちょっと不器用でねぇ」
「そうなんですか。あ、このランチプレートお願いします。コーヒーで」
オフィス街のカフェ。
いまは会社の一般的な昼休みからも外れて空いているが、平日のランチが主戦場なのは容易に想像がつく。
万が一、客の服を汚してしまったら午後からの仕事に差し支えるだろう。近場のオフィス勤務者を対象にしている以上、風評は非常に大きい。昼食を取れる店など、他にいくらでもあるのだから。
おそらくは、人手のいるランチタイムではなくこんな半端な時間を担当しているのも、余裕のある状態で仕事に慣れるためだというのはわかる。
単に研修期間的なものなのか、それとも実際に繁忙時間帯には役に立たなかったからなのかまでは不明だけれど。
常連というほどではないものの、この店には何度か訪れていた。ランチタイムは確かに慌ただしいが、慣れた店員たちが上手くさばいていて殺気立った雰囲気もなく居心地がいい。
ただ、接客に限った話ではないが仕事の向き不向きはあるため、すぐに辞めてしまうアルバイトもいるらしい。最短で三日だ、と聞いたときは呆れてしまったが、先ほどの様子から彼女の前途もなかなか多難なようだ。
数日前の、気の置けない友人たちとの会合の際の記憶がふと甦った。
――あの子なら、阿部の『人形』に勝てる……?
◇ ◇ ◇
複雑な飾り彫りの施された重厚なドアが開く。
真瀬 彰洋はその気配につとそちらへ目を向けた。
「ご主人様」
ドアを潜り抜けて部屋に入って来たのは、艶やかな黒髪を肩口で切り揃えた青いドレスの美女だ。
「ああ、ユリエ。……綺麗だろ? この子、俺の『人形』」
自慢気な口調の阿部 謙士郎が『彼女』を紹介した。
とりあえず会釈した真瀬たちに、挨拶を返すどころか表情ひとつ動かさない。いくら阿部の家が桁外れの富裕層だとはいえ、今の時代に個人所有でここまで精巧な機械人形を、というのはさすがに現実的ではないだろう。
つい凝視してしまった視線の先で、『彼女』が瞬きした。あの瞼の動きは人間だ。よく見れば微かに呼吸している様子も窺える。
そういえば声も人工音声ではなさそうだった。こちらはサンプリングでどうにでもなるのかもしれないが。
落ち着いてよく見れば間違いなく人間なのに、どこか作り物じみている。
するりと滑るように、ソファの阿部の横に納まる『人形』。
整った美貌もだが、ツンとした無表情がより一層無機質な印象を与えていた。
美しい女をただ侍らせるのは、場を考えなければまだわからなくもない。しかし寄りにも寄って『人形』とは。
阿部がこんな嗜好を持っていたとは聞いたこともなかった。
「飲み物、すぐ持って来てもらえるから。もうちょっと待ってな」
息を呑む友人たちが醸し出す異常な空気にも動じることなく、阿部が平然と口にする。
「……飲み物って、その人、あ、いや人形? がするんじゃないの?」
所謂『メイド』ではないのか? と言いたげな田無 佳尚の問いに、阿部はさらっと笑って返した。
「この子はそういうのじゃないよ。綺麗に着飾って、俺の目を楽しませてくれたらいいんだ。飲み物は正恵さんが持って来てくれる。ちゃんと好み訊かれただろ?」
正恵は阿部家に長く居る家政婦だ。真瀬たちも遊びに来るたびに世話になっている。
「もっと若い子でも面白いとは思うんだけど、――ああ、ごめんな。やっぱりお前のその艶は子どもには出せないさ」
見つめ合う二人の間に流れる、甘い空気。
阿部が『彼女』の肩に触れて、そのまま掌を腕に滑らせた。嫌がる様子も見せずただされるままになっているその様子を見せつけられて、みな声も出ない。
いったい目の前で起きているのは何なのか。
今日集まったのは真瀬の友人、――親友とも悪友とも称される、文字通り気の置けない仲間たちだ。
全員が小学校からずっと持ち上がりの、私立の一貫校である桂銘学園で育った。中学と高校は別学で、高校は外部募集はしない。
規模を考えても大学はもちろん別で、大学から来る学生が数の上では大半なのだが、学園内では『小学校から大学まで』の内部生はある意味特別な存在と見做されている。
出会ってもう二十五年以上、大学を卒業してからでも十年は過ぎた。
中には院に進んで、周りより数年長く大学に居たというメンバーも居るのだが、社会人になっても定期的に都合の合う者だけで会っていた。
今回の舞台は阿部の自宅だが、固定化されているわけではない。ただ、特に裕福で複数の使用人が常にいる彼の家に招かれることは多かった。
数年前に三十路も過ぎて、家庭環境からも身を固める話が出てきてもおかしくはない。すでに仲間内にも既婚者は少ないながら居る。
もっと若い頃、外で申し合わせてパートナーを連れて集まったこともあった。交際している女性が居ればその彼女を、居なければ誰かに頼んで、という者もいた。
どうしても嫌なら欠席すればいいだけなので特に文句も出なかったが、結局その慣習は続かなかった。
突然女性を、――それも『人形』などという名目で同席させた阿部。
彼は知性と育ちの良さが全身に溢れているタイプで、多少我が儘なところはあるが、目に余る傍若無人ぶりを晒すことはまずない。
しばらくして正恵が飲み物の乗ったワゴンを押して入ってくるまで、真瀬も、おそらくは他の友人たちもどう反応していいのかわからなかった。
その困惑の中、阿部にそっと背を押された『彼女』が音もなく立ち上がり、やはり前を見たまま正恵と入れ違うように滑らかな動きで部屋を出て行く。
主家の息子の奇行に顔色も変えることなく、ベテラン家政婦がいつもの如くにこやかに飲み物を渡してくれた。何事もなかったかのように。
この家で出されるコーヒーも紅茶も、その他のすべての飲食物が下手な店より美味だ。さしてコーヒーに造詣が深いわけでもない真瀬でさえ味の違いがわかるほどだった。
しかし今は何かを味わう余裕などまるでなく、ただの色のついた湯を口に含んでいるようだ。
生きた『人形』が場を去って以降、阿部本人はごく普通に話しているのに真瀬の方が囚われている気がする。確かに間違いなく美しい女だったが、『彼女』本人に興味があるわけではなかった。
ただあの、一種異様な、独特の空気に毒されたのかもしれない。
機械と違いメンテナンスは要らない、かといって人間のように気遣う必要もない、都合のいい生きた『人形』。
自分も、あんな風に……。