2 音寧
しばらく投稿がゆっくりになるので、少し長めです。
七年前ーー。
私の中から、音というものが完全に消えてしまった。
私の生家、清原家は言わずと知れた音楽一家として栄えており、時に皇室など身分の高いお家に演奏を委託し頂くことも多い。
そんな家の長女として生まれた私は、物心つく前から音楽というものに触れてきた。
父・清原誠二郎はピアニスト、母・清原美智はヴァイオリニストであったため、私に合った楽器を探るべく、両親は日々あれよこれよと様々な楽器を練習させたものだった。
そんな中で、私が最も才を見出したのは、母から受け継いだとも言えるヴァイオリンだった。
一音一音を丁寧に、繊細に奏で、その一音を繋げて一つの楽曲を作り上げる。たった一本の弦からこれほど高さや音色を異なって出せることに魅力を感じた私は、母に教えを乞い、七つになる頃には、演奏会に顔出しするほどに成長していた。
だがーーー。
私が違和感に気づいたのは、定期演奏会に呼ばれた帰りのことだった。
いつもならば、動く車の音や、降ってくる雨音が一つの音楽を奏でているようで、自然と楽しい気分になっていくというのに、この時は、なぜか音が小さく聞こえた。
気にしないでいたのも束の間、私の音の世界は徐々に消えていってしまい、九つになった時、音の世界は真っ暗な闇の中へと落ちていってしまった。
両親はあちらこちらの病院に当たったが、その原因が解明されることはなく、天才ヴァイオリニスト・清原音寧の名は世間から遠ざかることとなってしまった。
元々父と政略結婚をしていた母は、このことを病み、自殺した。
それからは私に向けられる視線は、同情か、憐みか。はたまた怒りか。
怒りであったのならば、私にはまだ受け入れられたかもしれない。母が私のことを責めてさえくれれば、母がそれで生きていてくれたのならば。
父は心を閉ざし、私に構うことはなくなった。楽器に触れることも許してもらえず、私はただ一人、自室に籠る生活を送っていた。
そのおよそ二年後、父は再婚者を連れてきた。
母とは全く似ておらず、私には父が母の記憶を消し去ろうとしているのではないか、母という存在をなかったことにしたいのではないか、と思えた。
母の存在を忘れてしまうことは、同時に私の存在をなかったことにしてしまうのと同義だからだ。
再婚者と名乗る女性は、三人の子を連れていた。未亡人であった。
父の再婚者というだけあって、彼女もまた、名の知れた歌手であった。
連れ子の三人もそれぞれ個々に名を上げており、清原家を継ぐには何ら申し分なかった。
私はまた、疎外感のような、心にぽっかりと空いてしまった穴が大きくなってしまうのを感じた。
母との記憶を思い返し、それを語る相手もおらず、私はただひたすら目の前の状況が変わっていくことを見ていることしかできなかった。
〇●〇
「あら、今朝の朝食係は誰だったのかしら」
継母の手が止まる。
私はそっと目線を上げた。
「ああ、貴方聞こえないのよね」
今の私には音こそ聞こえないが、口元を見ていれば、たいていのことは分かる。
まあ、口の動きを見ていなくとも何が言いたいのかはわかっている。いつものことなのだ。
「耳が聞こえないからよね、指示を出したのに言うことを聞かないなんて。朝食は必ず七品目並べておくように、と言ったわよねえ」
音が聞こえなければ、まるで人形劇を見ているようだ。その場その場で話を理解する。
「申し訳ございません。昨晩、今朝のお食事は品数を減らすように、とのご指示を頂きましたので、減らさせていただきました」
九つになるまでの間に、言葉を話せるようになっていたことから、相手が言いたいことさえわかれば、返事はスラスラと返すことが出来る。時に、気味悪がられることもなくはないが。
「あら、知らないわよ。そんなこと。耳が聞こえないからって嘘つかないで頂戴」
そう言って、頭の上から冷たい水がかけられる。
髪を一滴一滴雫が伝っていく。
雫の落ちるリズムが私の古い記憶に閉ざされたままの音譜を拾い集める。
(これは、イ長調)
知らず知らずのうちに、足でリズムをとってしまう。
視界がぐらりと歪んだかと思うと、背中に鈍い痛みが走る。
(やってしまいました)
見開いた視界には天井があり、その天井を覆うように、四つの顔が並ぶ。
私に向かって何かを言っているが、わざとそれを読み取らない。きっとそれは、知らない方がいいだろうから。
(いいえ、私が知りたくないだけ)
この家に迎えられた私の三人の異母姉弟たちは、何かと私に罵詈雑言を浴びせてくる。聞こえないのが幸いかもしれない、と思うほどに。
逃げるようにその場を立ち去り、自室に戻ると、父が扉の前に立っていた。
父は、私が継母や義姉弟から受けていることは知っているだろう。だが、止めることはしない。
きっと父の中にはもう、「清原音寧」という存在はないのだ。
そんな父が、私の目を真っ直ぐに見つめてくる。
母が他界した後、私に触れることも、話しかけることさえしなかった父が、かつて私を「娘」として見ていた時と同じ目をしている。
とっくの昔に諦めたはずの気持ちが、湧き上がってくるのを感じる。
私を娘と認めてくれるのだろうか、音楽に触れることを許してくれるだろうか。また笑いかけてくれるだろうか。
しかし、この僅かな希望さえも叶うことはなかった。
〇●〇
大きな門の前に立ち、ゆっくりと近づいていく。
あの時、父に言われた言葉。たった七文字だったというのに、私を絶望のどん底へと引きずり込むには十分だった。
『こ・の・い・え・を・で・ろ』
あの時だけなぜか、時間が止まったような心地がした。
父はもう、私が清原の姓を名乗ることさえ許してくれなかったのだ。
そこまでして、「清原音寧」という存在を消し去りたかったのだ。
悔しさと情けなさで、視界がぼやける。
今はもう、この新しい家でやっていくしかないというのに。
門に近づくと、中から女中らしき人が現れ、そっと手招きされる。
私の事情を知ってか知らずか、彼女は私を手引きするだけで、何一つとして話しかけては来なかった。
そのまま大きな庭を通り、東屋に出る。
一人の男性が立っており、女中が口を動かすと、男性は少しだけ振り返った。
(私は今、なんと言うべきなのだろう)
唯一の肉親である父に、「清原音寧」であることを許されず、私には今、私というものがない。
「お初にお目にかかります。私は…」
言いかけて、止まってしまう。二の句が継げない。
ポタリ、ポタリ。
地面を濡らしていくものがある。全く規則正しくのない調子で滴り落ちていく。
とめどなくあふれる想いをこらえきることができなかった。
そっと顔をあげたところに、居たはずの男性の姿はなく。
私は女中に急かされ、部屋へと通される。
私は忘れていた。
私が今挨拶をしていたのは、冷酷非情と謳われる、公爵家長男・東堂律久であることに。
(きっと呆れられてしまった)
「清原音寧」であることを捨て、冷酷な男性の下に嫁ぎ、音楽からはまたより一層離れてしまった。
その日吹いた風は、冷たく、肌を痛めつけるようなものだった。