DAY6
──今から十年前。
「ちょっと待ってよ、ロザリー」
「待ちませんわ。アリアナのくせにわたくしに命令しないでくださいまし」
「そんなこと言わないでよぉ」
広々とした庭を駆け抜ける。門限の時間が迫っていた。もとはといえば、こんな遠くにまで出ようと言い出したロザリーのせいだ。
「はぁ、はぁ、はぁ」
それでも諦めず、走り続けた。だが、それも長く続かない。やがて体力の限界を迎え、その場に倒れ込む。
「いててて……」
「さようなら、アリアナ」
彼女は息一つ切らしていない。昔から病弱だった私とは正反対だ。彼女は、いつもこうやって私を置いていく。それがたまらなく悔しかった。
だが、文句を言う気力もない。ただ地面に這いつくばっているだけだ。
私とロザリーの家は遠い親戚だ。ロザリーの父上が、私の母上の従兄弟にあたる人らしい。つまりわたしたちは、はとこ同士。それなのに、こうも私への扱いがひどいのには訳があった。
すべての始まりは曾祖父からだ。貸金業で莫大な富を築き上げた彼には二人の息子がいた。長男は不真面目で不誠実、つねに酒と女に走り、思慮のかけらもないろくでもない男。一方の次男はといえばその逆。誠実も誠実で嘘一つつかない。なにをとっても長男に勝っており、評判の良さは地域でも有名だった。ある日、曾祖父が亡くなった。享年五十四。王国の平均寿命が四十歳程度だったので、ずいぶん長生きをしたほうだ。死因までは聞いたことがなかったが、恐らく老衰だと思われる。それを聞いた次男は大号泣し床に突っ伏していたらしいが、長男は涙一つ流さなかったらしい。
次の日曾祖父の遺言書が見つかり、長男は気分上々で広げた。この世界では長男が家督を継ぐのが常であり、例外なのは長男が死亡したときだけだ。ゆえに普通であれば長男が継げるのだが、予想に反してか遺言書には『次男にすべてを譲る』と書かれていた。長男は激怒し次男を家から追い出した。周囲の人間は兄を罵倒したが、それでも次男は優しくなだめた。
次男は優しすぎた。ゆえにこんな交渉を兄と行った。これ以上関わらないことを条件に、全財産を彼に譲り渡すと。長男は大喜びして、大きい家に何人もの侍女を侍らせ、逆に次男はぼろい田舎の別荘へと向かった。
次男は新天地で一人の娘を授かる。のちに私の母となる方だ。心優しき人ほど早く亡くなるというのは無情にも間違っていなかったらしく、わたくしの母が産まれてすぐ、次男は息を引き取った。平民出身で後ろ盾がなかったわたくしの祖母は、女手一つで小さいころの母を育てる必要があった。結果、過労で倒れ、母が成人する前に息を引き取ってしまった。残された母は悲しみに暮れた。そして決心したのだ。自分は優しい男とは結婚しないと。父親が優しすぎたからこんなことになってしまったのだ。同じ轍は踏まない。
結論から言うと、母は優しい男と結婚してしまった。血は争えないらしい。最初こそ悪い男とつるんでいたらしいが、結婚相手ともなれば、性格がいい人に越したことはない。そう結論付け、彼女は教訓を忘れ去っていた。そして同じ過ちを冒すことになる。
私の父が投資に失敗した。当時、ランプという花の投資が盛んで、球根一つに大金がかけられていた。そのババを引かされ、借金だけが残ったのだ。父は精神を病み自ら命を絶った。母のもとには借金取りが何度も押し寄せた。このころ私は六つになっていた。今でも覚えている。扉の前に張り込み、わたしたちが居留守している間もばんばんと扉をたたき、怒鳴っていた人たちのことを。母は身をかがめ、覆いかぶさるようにして私を守った。
ある日、わたしは母に連れられ、大きな屋敷で暮らすことになった。話でしか聞いたことがなかった、かつて祖父が暮らしていた家だ。どうやら、借金をしていた大元が祖父の家を奪った長男のところらしく、母が侍女として働く代わりに借金をチャラにしてくれるらしい。
長男はまだ生きていた。歳は聞いたことがなかったが、恐らく八十は超えている。平均寿命が四十歳前後の中、八十まで生きた人間はそう多くない。王様とも何度かあったことがあるらしく、長寿の秘訣を毎回聞かれたんだとか。なんて答えたかは想像するに難くない。
孫娘がいた。名をロザリー。いい人だとは一度も思ったことがない。わたくしのことを侍女の子供だからと馬鹿にし続けたからだ。だけど居候させてもらっている以上、文句は言えない。わたしは子供ながら、残酷な主従関係を理解していた。
母は侍女として働いた。来る日も来る日も、母が休んでいる姿を一度もみたことがない。とくに長男からはしつこく付きまとわれた。なんでも、自分の妾になるなら返済期間を短縮してやってもいいとか。なんて神経の図太いやつだ。これだけ性格が悪ければ、祖父も早死にしなくて済んだのかもしれない。彼女は断った。当然だ。彼のことを恨んでいた。それに、自分の父親ほど離れている年齢の相手に、母が好意を抱くはずもない。しかし長男は諦めなかった。それがゆえに、事件は起きた。
母が亡くなった。またわたしは大切な人を失ってしまったのだ。長男も同時に亡くなったらしいが母のことで頭がいっぱいだった。死因は伏せられた。侍女に聞いても口の一つ割らない。ロザリーはなにか知っていたようだが、あなたには教えないの一点張りだった。わたしはただひたすら、母の墓の前で泣きわめくことしかできなかった。
わたしはロザリーの家族になった。血は繋がっていなかったためか、かなり煙たがられた。わたしは耐えた。必死に耐え、そしてようやくチャンスをつかむことができた。王太子の花嫁候補に選ばれたのだ。屋敷の皆に喜ばれた。あのロザリーにだって褒められたくらいだ。少しばかりの平和な時が流れた。いつしかロザリーの父親を実父と仰いでいた。本当の父親のように接してくれたからだ。わたしはさらに頑張った。頑張って頑張って頑張って。血もにじむような努力をした結果……婚約破棄された。父上から知らされた時には薄々気づいていた。そして相手がロザリーだと知って確信に変わった。利用されていたのだと。ロザリーが王太子に近づくための捨てゴマだったんだ、わたし。
こうして怒り心頭になり、ロザリーの父親に別れを告げ、王立魔法学園に入学したのだ。自分一人で生き抜く術を、身に着けるために。
「そうか、そんなことがあったんだね」
「えぇ、そうです……って殿下!?」
私は自室のベットで横たわっていた。クロヌス殿下が手を握りしめ、わたしのそばにいる。殿下の胸を借りたあたりから記憶がない。もしかして私、眠ってた?
「いままで辛かったね。でも安心して。これから先の人生はすべてが報われるよ」
ニコッと笑った。やっぱりイケメンだ。むかつくくらい顔が整っている。
「おつりがくるよ、これからの人生。なんなら、いまおつりだしてあげよっか?」
耳元で彼がささやく。見とれていた隙を、彼は見逃さなかった。髪が頬に触れた。柔らかく繊細な銀髪だ。吐息が耳たぶに触れ、びくっと反応してしまう。彼が意地悪そうに笑う。顔が真っ赤になった。今にも破裂しそうだ。
「ああああの、殿下!? 一度ご退出願っていただいてもよろしいでしょうか?」
「ん、なんで?」
「いや、これは非常にまずい状況だと思いますし……ほかにもその……」
「ん~、いやだ」
「殿下。ちょっと殿下……ひゃあ!」
押し倒された。肩を掴まれている。殿下の髪が、私の目元まで垂れ下がっていた。それはカーテンのように視界を遮り、殿下の顔しか見ることを許さない。
彼の匂いに包まれる。心臓が爆発しそうなほど脈打っている。頭がくらくらする。甘い香りはますます強くなり、脳髄の奥にまで浸透していく。
なにも考えられない。ただひたすら、目の前の彼しか見えない。
「逃げるなよ」
捕獲された。彼の声で完全に。唇が近づいてきた。もうどうすることもできない。金縛りにあったような感覚に陥る。体が動かないのだ。抵抗すらできず、受け入れる準備をした。瞳を閉じ、ひたすらに待ち続けた。本能の赴くままに。ただまっすぐに。
「な~んてね」
彼の唇が離れていく。え、どういうこと? 予想外の行動に理解が追い付かない。
「ちゃんと約束しただろ? 順を追って君を迎えると。僕は真剣にお付き合いするつもりだからね。こんな簡単に君の唇を奪ったりはしないさ 」
ウィンクをして彼は去っていく。待ってと言う時間すらなかった。残された私は、呆然としていた。額の余熱を取り払うにはしばらく時間がかかりそうだ。
「うぅ~遊ばれたぁ……」
ばたばたと足をばたつかせ、悶える。彼のいじわるな顔が、脳裏に焼き付いていた。このあとしばらく、わたしは寝付くことができなかった。