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優しき天神は生贄を欲す 其の弐拾陸

(この匂い…)


最初は分からなかったが、女の身体から、嫌な匂いがするのだ。

健康な人間の匂いではない。


(まさか…!)


女の美貌にばかり目がいってしまい、部屋に充満している匂いに意識が回らなかった。


(この女…病魔に侵されてやがる。しかもかなり厄介なやつだ)


人間達がこのやまいを何と呼んでいるかは分からない。

だがこの匂いは、明らかに重篤な病に侵されている匂いだ。


「病か」


「…え!何故それを…?」


驚いたように口を開く女を無視すると、妖は改めて女の全身を見る。


(くそ…病に侵された人間なんぞ喰えるもんじゃねぇ)


妖とて生き物だ。

病魔に侵された人間を食えば、病がうつる事はなくても身体は壊す。


「…私も以前は都で暮らしていたのです。ですが、私の身体は治らぬ病に侵されています。…この病は他人にうつる事はありませんが…」


「…なるほどな」


全て聞かずとも分かる。

病魔に侵された女を、都の人間達が総出で追い出したのだろう。薄汚い人間達のやりそうな事だ。


女の主張など、聞く者はいなかったはずだ。

人間とは自分の為なら、平気で人を裏切るのだから。


(そうか…)


この女は人間達に裏切られたのだ。

疎まれ、嫌われて、追い出された。


そう気付いた時、妖は遠い昔、自分も人間達と上手く付き合って暮らして行こうと、そう思っていた頃があったと思い出す。


だが人間達は、自分とは違う赤髪の妖を受け入れなかった。


それからだ。

人間が自分を受け入れないのだから、自分から寄り添う必要はないのだと思い至ったのは。


それからだ。

人間を殺し始めたのは、食糧としか見なくなったのは。


(同じだ)


この女もまた、何とか歩み寄ろうとしても相手から拒否され、結局全てを諦めて一人で暮らしているのだろう。


「…お前…名前は?」


「…私ですか?私はひさめと言います。…あの…貴方は…」


「俺は…、神鬼しんき…と呼ばれてる」 


そう言った神鬼の目には、少し前までの冷たさがなくなっていた。












それからしばらく…。

月日にすると、たったの数ヶ月だ。


神鬼しんきひさめ蜜月みつげつは、あっという間に終わる事になった。


神鬼は結局、霈に正体を明かせないまま、霈の暮らす山の山頂付近にあった寺で暮らし始めたのだが、それがいけなかったのだろう。


何処で姿を見られたのか、山に鬼が棲みついたという噂は瞬く間に広がり、朝廷からの討伐隊が山へ送られて来る事になった。


自分だけなら構わないが、この山には霈も暮らしている。


鬼である自分と霈の関係性は噂になっていない為、自分さえ何処か別の場所に行けば、霈は平穏に暮らして行けるだろう。


そんな風に簡単に考えて、しばらく山を離れる事にした神鬼は、後に後悔する事になる。


何故なら、鬼退治の為の陣を張る為、山の麓にあった霈の家は壊され、霈は着の身着の儘で山に放り出されていたからだ。


行く場所のなくなった霈が、必死の思いで山を歩き回り続け、そして力尽きた時。

ちょうど様子を見に帰って来た神鬼がそれを見つけたのだった。


────これは運命なのだろうか。

本当は一人が寂しかった鬼が、盲目の女性と出会って惹かれ合ったのは、悲劇の始まりだった。


それでなくても、病が進行して、一日のほとんどを寝て過ごす事が増えた霈だ。

山の中の一人で歩き回って、無事なわけが無い。


それは神鬼が初めて味わう恐怖だった。

いつ命の灯火が消えてもおかしくない、そんな霈の姿に、神鬼は恐怖したのだ。


霈を失う事が心底怖い。

霈を失い、また一人きりになる事が心底怖い。


自分を殺す為に編成された討伐隊が、まさか同じ人間である霈にまで、こんな真似をするとは。


自分さえ山から去れば、霈がまた平穏に暮らせるのだと思っていた自分を殴ってやりたい。


神鬼は、目を開けてはいるが、ほとんど意識のない霈を抱きしめながら、声を掛け続けた。


「霈…!おい!霈!!」


一人になりたくない。

愛する者を失いたくない。

…霈にずっと傍にいて欲しい。


だがそんな願いが天に届くはずも無く、霈の最期はやって来た。


腕の中にいる霈は、今にも目を閉じそうな顔で、神鬼を見つめる。


「神鬼…、お願いよ…。この山を守って…、この山は…都を追い出された私を受け入れてくれた、たった一つの場所なの…。そして貴方と過ごした思い出の場所…」


そう言うと、初めて会った時と変わらぬ笑顔で、神鬼の頬を撫でる。


「貴方はどんな顔をしているのかしら…、きっと優しい…顔をしてるわね」


「…霈…、俺は…」


「ねぇ、神鬼…。今まで何処へ行っていたの…?私…貴方と暮らしたかっ…」


そこまで言うと、神鬼の頬を撫でていた霈の手が落ちる。


「…霈?」


名前を呼ぶが、薄く開いた霈の目に光は戻らず、暗く濁ったままだった。

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