優しき天神は生贄を欲す 其の弐拾肆
────百数十年前。
深夜、東のとある都。
数里先の音さえ聞こえて来そうな静けさの中、一匹の妖…、鬼が裏通りを歩いていた。
燃えるように真っ赤な髪と、額に生えた立派な一本の角が、人間ではない事を如実に物語っている。
ここは、ほんの数年前に、まだ幼い帝が遷都して来たばかりで、まだ警備や防備が不十分であった。
その幼い帝も実際はただの傀儡であり、政治を仕切っているのは、母親である敬氏。
…実質の垂簾政治である。
今の幼い帝が王位に着く前の先帝…つまり現帝の父親は、女が政に口を挟む事を良しとせず、その為、政に関わりたい敬氏に、暗殺されたのではと言う噂も多かった。
しかしそんな人間達の世相など、鬼には全く関係の無い事である。
事実その赤髪の鬼も、そんな事には興味もなく…、いやそもそも知りもしなかったのかも知れない。
赤髪の鬼が興味があるのは、喰う事と殺す事。
その二つだけなのだ。
普段人間が暮らす場所へやって来るのは、腹が減った時くらいのもので、その夜は本当にたまたま通り掛かっただけである。
だがそこで、赤髪の鬼は運命的な出会いを果たす事になった。
腹ごしらえの為、適当な人間を探していたその妖は、町の近くにある山の麓に、古い家を見つけたのだ。
灯りが漏れていない事から、無人である事が分かる。
この時代はまだ、人間のふりをして、人間の暮らしに混じっている妖も多かったが、赤髪の鬼は髪の色と額の角のせいで、人間のふりは出来ない。
いや、その鬼は人間を心底嫌っており、人間のふりをするつもりも、さらさらなかった。
わざわざ人間のふりをしなくても、欲しければ力づくで奪えば良いのだから。
そんな訳で、その鬼は特に住処を持つ事はせず、あちこちを気ままに転々としていたのだ。
近付くと、遠くから見るよりもかなり古い。
壁のほとんどが朽ちており、なんとか雨風を凌げる程度の小屋と言っても良いくらいだ。
(まぁ、腹ごしらえ…。いや最悪、寝られさえすれば良いか)
赤髪の鬼は、昼間にいくつかの村を襲い、滅ぼして来たばかりだった。
疲れていた訳ではないが、人間を殺すという欲望は既に解消されている。
それにここは、帝のいる都だ。
いくら警備が不十分とはいえ、精鋭の兵士達が揃っているだろう。
正直、こんな時間から相手にするのは面倒くさい。
そんな思いで家の戸を開けた鬼は、思わず目を見開いた。
何故なら、誰も住まぬ空家だと思っていたのに、人がいたからだ。
「…誰?」
若い女だ。
鈴を揺らしたような澄んだ声が、薄闇の中から聞こえてくる。
普段驚く事などほとんど無いが、さすがに今回は驚いたらしい鬼は、黙ったまま室内を見回した。
(…この女…、行燈も使わずに過ごしてんのか?)
鬼である自分は全く問題なく夜目がきくが、人間は夜は明かりがなければ何も出来ないはずだ。
「…誰なの?おばさん…?お願い、声を出して」
(…?他に誰かいるのか?)
もう一人いるのだろうかと室内を探すが、誰の姿もない。
姿が見える位置まで入って行くと、少しの光もない暗闇の中に、美しい女が座っていた。
灯りが無かった事で、眠っていたのかとも思ったが、女の周りに布団はない。
「…?」
女が座っている位置から離れていない場所に、ちゃんと灯油がある。
(…あんじゃねーか、なんで使わねぇんだ?)
「…おばさん…じゃ、ないのね…?」
(…さて、どうするか)
女を殺してしまっても良いが、どうにも今夜は興が乗らない。
確かに良い女ではあるが、犯したいとも殺したいとも思わないのだ。
「…ねぇ…誰なの?」
そう言いながら立ち上がり、この暗闇の中を慣れた様子で向かって来る女に違和感を覚える。
確かに自分の家なら慣れているだろうし、暗くても多少は動き回れるだろうが、女の動きはそれとは違った。
その動きは寧ろ…。
(ほぉ…?この女、盲人か)
人間には、目が見えない代わりに、鋭い五感を持つ者がいると聞いた事がある。
見えない分は肌で感じ、耳で聞き、中には目が見えるかのように振る舞う者もいるとか。
(おもしれぇ…)
盲人なら自分の姿…、つまり額の角や赤い髪が見えてはいないという事だ。
人間のふりをして、少し遊んでやろう。
その時の鬼は、そんな軽い気持ちだったのだ。




