優しき天神は生贄を欲す 其の弐拾壱
驚かさないように、その後ろ姿に近付くと、数歩だけ離れた場所で脚を止める。
「…佐己」
後ろ姿がぴくっと反応する。
だが佐己は振り返らず、私に背中を向けたままだ。
私はもう一度、優しく声を掛けた。
「佐己…よね?」
確認するように問い掛けると、佐己はゆっくりとこちらを振り返る。
そして見えた佐己の顔を見た瞬間。
私は思わず佐己に駆け寄り、何も言わずに小さな身体を抱きしめた。
胸が締めつけられる。
見ているだけで、こんなにも胸が痛くなる顔を私は知らない。
「佐己…!!」
佐己は泣いていた。
姉である朔との約束を違えぬように、張り付いた笑顔のまま、止めどない涙を流していたのだ。
顔では笑っていても、どれほど悲しいだろう、どれほど苦しいだろう。
悲しい時に涙を流すという行為は、決して弱い訳でも情けない訳でもない。実は必要な行為なのだ。
妖魔になって以降、きっと佐己は泣くのも我慢して、ずっと笑っていたのだろう。
(ずっと…お姉さんとの約束を守って…)
それでもずっと、泣かずに溜めてきた負の感情が爆発したのだろう。
見ている方も、胸が張り裂けそうな泣き顔だ。
「佐己…!頑張ったね…!お姉さんとの約束、ずっと守ってたんだよね。ごめんね、気付いてあげられなくて…」
好きで妖魔になった訳じゃないのに…。
「怖がってごめんなさい…、佐己…」
抱きしめる腕に力を込めると、佐己は戸惑ったように私の背中に腕を回してくる。
優しく頭を撫でてやると、その手はぎゅっと、抱きついて来た。
どれくらい佐己の小さな身体を抱きしめていたのか。
佐己は満足したように私から離れると、俯かせていた顔を上げた。
「…佐己…」
その顔は先ほどまでの張り付いた笑顔ではない、佐己の過去で見た普通の顔だった。
「お姉…ちゃん、ありがと…う」
「…!話せるの?!」
ずっと口をきかなかったから、勝手に話せないのかと思っていた。
驚いて佐己の肩を掴むと、背後から聞き慣れた声が聞こえて来る。
「その子は人間だ」
振り返ると、風玉様がこちらに向かって歩いて来る姿が見える。
「風玉様…?どうしてここに…。いえ、それより人間って…?佐己は妖魔になったんじゃ…」
そう佐己を見ながら問い掛けると、佐己は風玉様から隠れるように、私の背後へ回って腕にしがみついて来る。
「…?佐己…、大丈夫よ、風玉様はお優しい方だから…怖がらなくていいの」
そう頭を撫でてやるが、佐己は左右に首を降って、私の陰から出ようとしない。
「佐己…」
どうしたものかと思案していると、近寄ってきた風玉様は、佐己に目線を合わせるように、片膝を立ててしゃがみ込んだ。
「…佐己と言うのか」
「……」
「私の名は風玉、…少し私の話を聞いてくれるか?」
風玉様の言葉に、佐己は私を振り返る。
私は小さく頷いた。
すると佐己も、風玉様に向かってこくん。と頷いた。
「…ありがとう。…そなたの姉が生贄として山に来た事…。元はと言えば、私が原因なのだ」
「…え?」
その言葉に驚いたのは、佐己より私の方だった。
何故なら、風玉様は十年前はこの山にはいなかったはずだからだ。
風玉様がこの山に帰って来たのはつい最近で、十年前の生贄である佐己の姉…朔さんの事を知っているはずがない。
「伽耶…、前に言ったろう?この風玉と言う名は、大切な友人から貰った大切な名なのだと」
「…はい…」
「その友人の名は謝明。私が愛した女性だ」
「!!」
妖である風玉様が、人間の女性を愛した?
確かに人間と妖の恋物語は、遙か昔から言い伝えのように存在するが、それのどれもが悲恋で終わっている。
それらは、人間と妖は決して共に生きられない事を、教訓として後世の人間に伝える為の物語だからだ。
私が驚いた理由が分かったのだろう。
風玉様は悲しそうに目を細めると、そうだ。と頷いた。
「我ら妖と人間は上手くはいかぬ。寿命も違う為、必ず我らは一人残される」
「それでも…一人残される事が分かっていても…、その女性を愛したのですか?」
「ふふ…、伽耶よ…頭と感情は別のものだよ。そなたにも愛する者が出来れば分かる」
そう風玉様が言った言葉を聞いた私の脳裏に、何故か琥珀の姿が浮かぶ。
「…謝明は聡明で美しい娘であった。だが、唖であったのだ」
「え…」
「だが口がきけずとも、意思の疎通は出来る。暮らしている村で、唖である事が原因で、皆から迫害を受けている事は、容易に分かった」
確かに、人間は自分と違うものを厭う生き物だ。
風玉様の話を聞いていると、人間である事が恥ずかしくなって来てしまう。
「だが先程も言ったように、とても美しい娘でな…。謝明が唖である事を利用して、狼藉を働く男達も多かった」
「何てことを…」
…気分が悪くなる話だ。
口の聞けない娘を選んで乱暴するなど、人間のすることではない。
「初めて謝明と会ったのも、数人の男達に乱暴されている時だった。助けたは良いものの、村に返せば同じ事の繰り返しだ。その時の私は謝明を哀れに思い、山で一緒に暮らす事にした」
そこまで言うと、風玉様は言いにくそうに口を閉じる。
その顔は当時の事を思い出しているのか、つらそうに歪んでいた。




